定規
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豚美が見えることは別に大きな問題と思わなかった。それより困るのは自分の顔がまったく見えないことだった。鏡で顔を見られないと、思った以上に現実的な不都合がたくさん起こった。顔を洗ったり、シャンプーをしたり、そういうときに泡が完全に落ちたのかわからない。髪の毛や、まゆ毛がどんな感じなのか、伸びすぎているのか、整っているのか、乱れているのか、常にわからない。肌にニキビができても状態がわからない。歯磨きをしても磨き残しが確認できない。
豚美に慣れたあと、わたしはこういった実際的な問題をひとつひとつ丁寧に解決していった。たとえば洗面台で洗顔するときは確実に流れ落ちる範囲に泡をつけ、顔の周辺から鼻にかけて水を流していった。髪の毛はなるべく手入れをしなくても済むようショートにしたうえで、美容室でおまかせで切ってもらったし、その美容室もこまめに通うために、安いお店を探して母にリクエストした。ニキビができたらそれとなく家族にどんな状態か聞いて、触った感じと家族がいう状態とを連動させて記憶した。歯磨きでは磨く歯の順番を決めておき、万遍なく磨けるようにした。妙なテクニックだけれど、そういうこまごました積み重ねによって、自分の顔が見えない生活は格段に質を上げていった。また、それらの工夫の積み重ねによって鏡に豚美がいることや、自分の顔が見えていない事実は、わたし以外の人間に伝わることがなかった。
唯一、まゆ毛を整えることがわたしを悩ませた。最初、手入れがいらないようになるべく濃く長めにしておこうと考えたのだが、わたしのまゆ毛は手入れをせずに放っておくには、あまりにも濃く、太かった。眉間のあいだにも毛が生えてくるから、放っておくとつながってしまうのだった。母に頼んで、どんなにこまめに美容室に通おうとしても、小学生のわたしには月に一回が限度だったから、まゆ毛がつながらないためには、どうしても自分で剃刀をつかって手入れする必要があった。
ある日、まゆ毛が伸びすぎていると友達に指摘され、見えない恐怖に怯えながら剃刀を立てているときも、豚美はぶうぶう呑気に鳴いていた。いい気なものだと思った。よくみると豚美にもうっすらまゆ毛が生えていた。猫の口髭のような細長い毛が、豚美のまぶたの上からひゅんひゅんと何本か飛びだしていた。豚にもまゆ毛があるのかと感心して見ているうちに、手もとが狂い、眉間を切った。痛いのはわかったし、血がダラダラ流れているのもわかったが、傷の深さについては顔が見えず確認できなかった。
豚美はまゆの間から血を流すわたしに嬉しそうにぶうぶうといった。なぜか、いつもよりも嬉しそうで、困ったやつだと思って、わたしは思わず笑ってしまった。とにかく豚美はこちらの苦労も知らずにいい気なもので、いつでも呑気にぶうぶう鳴いているので、反対にわたしが笑ってしまい救われることがよくあった。豚美は見た目こそ醜いが、天真爛漫でかわいい、いいやつなのだった。
剃刀で切った傷は思ったよりも深く大きなものだったらしい。しばらくのあいだ、小学校の友達からからかわれた。どうやら傷のせいでまゆ毛がつながって見えるようで、わたしはブサイクなうえに変なおもしろい顔になっていると男子たちから笑われた。傷があるので「手負いの豚」と呼ばれ、「豚を狩るチャンス」だとかいって蹴られたり、叩かれたり、髪を引っ張られたりした。わたしはやめろといって何度も抵抗したが、かえってそれが彼らの遊びを楽しくするようで、やり返すごとにわたしを狩ろうとする仲間が増えた。女子の友達が何人か「やめなよ！」といって加勢してくれたが、男子たちはその場だけ大人しくなって、注意する女子がいなくなったときを見はからって、ふたたび、わたしを狩ろうとするのだった。
登下校の下駄箱でひとりになったときを狙って突き飛ばされ、掃除のときにゴミ捨て係になるたびに焼却炉でゴミ箱を奪って頭にかぶせられ、雨が降る日の登下校は槍に見立てた傘で刺されたりした。男子たちはわたしが耐えきれず目に涙を浮かべると「よし、もうすぐチエブタを倒せる」と歓喜した。なにが倒せるだ。わたしはいい加減にしてほしいと思い、もう彼らのすることを、なるべく無視することにした。男子たちは見えないようにわたしの脇腹を何度も何度もつねり、痛みに耐えられなくなってくる頃になると「裏庭で豚狩りやるから来い」といって、わたしを呼び出し、誰にも叱られない空間でのびのびとわたしを棒で叩いた。
わたしがなにもやり返さないでいると罪悪感が芽生えるらしく、「おいやり返せよ」といって腿を強く叩かれた。仕方なくやめろ、やめろと喚いては、5、6人いる彼らを追い回し、当然、捕まえられるわけもなく、ふたたび突かれたり、叩かれたりした。
遊びに興奮した男子たちは、常識外に執拗で、陰湿で、暴力的だった。驚くべきことにわたしの身体には一切の傷ができなかった。あれだけ大量に小突き回されて、痛みを感じているのに、他人には一見して気づかれない程度の小さなアザや切り傷くらいしかできなかった。わたしの体が頑丈なわけではなく、男子たちが攻撃を加減をしているせいだった。長くわたしを狩ることができるよう攻撃は絶妙な加減に調整されていた。
わたしが痛みを感じ、そのストレスで苦しい表情をしたり、思わず叫んでしまう程度には強く、しかし物理的に肌が耐えきれず傷や痣を形成するほどには強くなく、つまり「ちょっとおふざけしていた」といつでも言い訳できる暴力の塩梅を、男子たち全員が経験的に身につけていたのだ。手加減をしているから、いざ、わたしが親や教師に泣きついたときも「ちょっとふざけただけ」とか「ケガをさせるつもりはない」、「同じくらいやりかえされている」などと言い逃れできるようになっているのだ。
しかしもちろん、じっさいに箒の柄で耳を叩かれれば電気のような痛みが走るし、肌に赤みがさす程度の打撃だってじんじんと疼くほど痛いのだ。しかし彼らは第三者からみると、わたしとじゃれあっているだけに見える。攻撃は彼らの本能によって、恐ろしいほど狡猾に調整されていた。
眉間の傷が治ってくる頃、わたしの隙を見て、ある男子がふたたび定規でわたしの額を切りにかかった。楽しい豚狩りを終わらせたくないからだ。まゆ毛がつながった変な豚でなければ、攻撃する理由に欠けるからだ。ふざけるなと思い、わたしは逆上して、そいつの定規を奪いとった。そして奪いとった定規で思い切り腕を叩いてやった。ばちんと大きな音がした。そいつの腕が定規に引っ掻かれ10センチくらい切れた。傷は浅かったが血はにじんでいた。その男子は定規で殴られるなんて思っていなかったのか、定規の掻き傷が痛かったのか、わんわんと泣きだしてその場を去った。あんなもので泣いてしまうようなヘナチョコに攻撃されつづけていたのかと思うとあきれるくらいだった。
帰りのホームルームになると担任の女性教諭がものすごい剣幕でわたしを叱りつけた。わたしとケガをした男子を前に立たせたあと、男子に「誰にやられたの？」と聞き、男子にわたしを指差させると、担任は大袈裟にため息をついて数秒ほど黙り、直後、「女の子なのになんでそんな暴力的なことをするの！」と、とてつもない大声で怒鳴った。
教室が一瞬で静まり返った。
わたしはあまりの衝撃で声が出せなくなってしまった。なぜ彼ではなく、自分が怒鳴られているのか。なぜ、わたしがやったことだけが悪として裁かれているのか。先生はなにを見ていたのか。いくつかの出したい言葉もまったく外へ出せなくなった。
担任の女性教諭は場を自分のものとすると、まるであらかじめ決められた芝居を熱心に再現するかのように、「わたしは信じられない」と涙ぐんだような声をだして、自分がいかに仲の良い学級を育もうと努力してきたか、それをわたしがいかに踏みにじったか、傷を負った彼がいかにほがらかで善良な人間か、暴力がいかに恐ろしく愚かで罪深いことなのかを、わたしの眼球目掛けて語った。男女平等についても語った。「女の子だろうがこういった暴力が許されるわけがないでしょう？」と担任は瞬きもせずいった。さっき、「女の子なのに」と言葉の頭につけていたのは、なんだったのだろうと思っても言いだせる空気ではなかった。
担任はわたしの眼球を、自分の見開いた目で固定して、自分の発する声を跳ね返し、まるで人間スピーカーのようにして教室中にメッセージを振りまこうとしていた。
わたしは担任の言葉をうまく咀嚼することもできず、とにかく彼女の視線があまりに怖くて途中から泣いた。すると担任は「悪いと思っているのね。なら、自分のしたことをきちんと反省してください」と言って、定規で人を叩くことを強く禁止する旨をアナウンスし、帰りのホームルームを終わりにした。
家に帰ると父と母へ担任から電話がいったようで、その日のうちに男子の家に謝りにいった。菓子折りを出して、へこへこと頭をさげるわたしの両親に、向こうの両親は「まぁまぁ子供がやったことですから」と言い、言いながら、わたしのことを何度も何度もチラチラと見つづけた。わたしは親といっしょにごめんなさいと言いながらも、心の中では「おまえらの子供は傷をつけないなら怒られないから大丈夫と、わたしへ回し蹴りをいれたり、黒板消しの粉を顔面に擦り付けて食わせたり、カッターナイフを喉元に突きつけて興奮したりしている狡猾な変態だ」と唱えた。
わたしが定規で叩いた男子は玄関に出てもこなかった。家の奥のほうから楽しそうなゲーム音が聞こえた。