ブタブタブタ……
***
しかし年齢があがると、豚であることがことごとく問題になってきた。わたしをブタと呼ぶことで蔑む人間が増えてきたのだ。
同じ「チエブタ」の呼び名のなかに、さも豚であることが恥であるように、豚であることが不幸であるかのように振る舞う意図が見え隠れするようになった。豚の呼び名を通して、わたしをあざけ笑ったり、ありもしない哀れみを向けたりする人間が目につきだした。それがとても嫌だった。
他人から哀れみを向けられる覚えなどなかった。豚であることを誇りには思っていなかったが、かといって恥じたこともなかった。わたしが豚でブサイクであることは、わたしに左右の腕がついていて、その先に指が5本あることと、さしてかわりない事実であり、ごく普通、当然のことであった。
しかしいくつかの他人にとっては違うようで、わたしの豚さは他人のものであり、しかも彼らの精神にとって、格好の餌であるようなのだった。
他人はどうやらブタの呼び名をつかって、わたしを貶め、その過程で自分自身の優良さや恵まれた立場を再確認しては気持ちよくなるらしかった。つまりわたしの豚さ加減は彼ら自身のよくわからない快感の回路のために使われていた。わたしの豚さは、これっぽっちもわたしと彼らの関わりのなかから、わたしに得るものを与えなかった。
幼少期のわたしは、そのことが一番、許せなかった。
わたしの豚さをおまえらのためだけに使うな。わたしをブタといってからかう者に対して、いつも憤っていた。わたしが太っていて、顔がブサイクなのは。わたしが好きなだけものを食べ、自分の肉を着々と増やし肥満体になっているのは。それらはまったくもって、おまえらのためじゃないのだとずっと考えていた。
チエブタの呼び名、それ自体は好きでも嫌いでもなかったが、そういった悪意ある呼称の使いかたについては心底、嫌悪していた。でも、わたしの呼びかたに良い悪いがあるなんてこと、周囲の人間はまったく気が付かないようだった。それはわたしに愛情をもって「チエブタちゃん」と呼びかけてくれる両親にもいえることだった。両親はわたしの呼び名が人によってわたしを蔑み、その人のねじ曲がった自尊心を太らせているだなんてことを、想像すらしたことがないようだった。
だからわたしのチエブタは他者によって好き好きに使われた。周囲の人々はさまざまな意図を混同させて、わたしにブタと言いつづけた。ある者は笑って、ある者は真剣に、ある者は憐れみを向け、ある者は好意と親愛をさしだし、ある者は優越をもろに含んだ表情で、そしてまたある者は謂れのない怒りさえ差し向けて、わたしをブタと呼んだ。
ブタブタブタブタブタブタ……。
ブタブタブタブタブタブタ……。
ブタブタブタブタブタブタ……。
ブタブタブタブタブタブタ……。
ブタブタブタブタブタブタ……。