月は重力が弱いからコーヒーがうまく淹れられない|9,428文字

月は重力が弱いからコーヒーがうまく淹れられない遙夏しま2021・06

 月ではコーヒーを淹れる気にならない。重力が弱いからうまく淹れられないのだ。ポト……ポト……とあまりにじれったく落ちるのが待ちきれず、だから最近は紅茶を飲んでいる。ティーパックならお湯に沈めておけばジワジワとお茶がはいるから。地球にいた頃と待ち時間はあまり変わらないですむ。べつに急ぐことなんて何もないのだけれど、わざわざ待ちたいとも思えないのは、やはり人のさがなんだろう。みんなそんなものだ。僕はべつに特別な人間じゃない。

 音楽をかける。「悲しみの涙で育った大きな木を――」と誰かが歌う。十代の頃、父の持っていた古びたCDボックスからいくつか拝借して、自分のプレイリストにコピーしておいた楽曲のひとつ。気に入って延々リピートして聴いている。大昔のジャパニーズ・ポップだとか父が鼻の穴を広げて言っていたけれど、J-POPなんてずっとあるでしょうと思うだけで興味はわかなかった。ジャンルも曲名も歌い手も、ぜんぜん知らなくて問題ない。陽気な曲調とそれに比べて微妙にひっかかる歌詞。それがよかっただけだ。歌詞の内容をかいつまんでみると、たしかこんな感じ。

 ――悲しみの涙で育った大きな木。それを登っていけばいつか月に着く。そこで音楽を聴き、体を動かして暮らしている。心を動かすものはほとんどないが、退屈さに負けてしまわないよう、楽しいと思い込ませて生きている。夜はどこからともなく僕たちを包み込み、君のことを思い出す。この雨はいつかやむのだろう。みんな元気だろうか。――

 月で雨が降っているのがとてもいいと思う。

 それにしても本当にこの曲みたいな人生になったなと僕は考える。紅茶をずるずる飲みながら窓の外を見ると、むこうには真昼の月面が見える。延々つづく月の砂。地面に白銀が広がる。空は昼でも漆黒だ。暗いのか、明るいのか。もちろん月の昼間としては明るい。しかしものすごく明るい頃からは過ぎているともいえる。地球でいえば今は夕方になる前くらいか。

 このあともう数日すると月には極低温となる夜がやってきてそれは2週間ほどつづく。しばらく月の住民は寒く、長い夜を過ごす。もちろん外には出ないで空調の効いた月面住試験用基地で過ごすのだけれど、省エネのため夜の間にかなり冷えることもある。いちばん寒いときで摂氏5度くらいまで冷えたこともあり、そういうときはダウンを重ね着して寝袋にくるまり、電気ヒーターに当たりながらやり過ごしている。(管理の人間から言わせれば月のいちばん寒い夜に気温5度にキープするのだって、並大抵のエネルギーじゃ足りないくらいらしいけれど。)

 まあなんだっていい。

 月まで来てしまえば、生きる以外にとくにやることはない。

 僕は月での生存可能性をテストする長い運用試験のメンバーである。僕の住む月面基地コミュニティは管理部の人員含めても50人足らず。四半期に一回、地球からの補充船に生かしてもらいながら、なんとか長く(快適に)生き延びていられれば、あとはこの人生、何も求められることはない。

 わずらわしいことから逃れて月にでも棲みたいものだと志向し、運よく月に人がいける時代に生まれた。そのタイミングの良さは、月に住むことをあまりに無謀とも、かといって誰しも可能なことともいわず、ゆえに月面生存適用可能性試験というものが存在し、そのなかでも格段にリスクが少ないであろう最終回の第72期試験が開催される、素晴らしいほどのちょうどよさが示していて、さらに運の良いことに僕はその選抜メンバーにうまい具合に残ることができた。

 まあ言ってしまえば僕は「月に一般人が住めるか」という、71期までで事項を、最終的に実証する人員として選ばれたのである。

 人類の進化のスピードは年々進んでいるけれど、やっぱりその進化を大衆にまで適用させるには、かなりの時間がかかるもので、でもアポロ11号なんて歴史を僕が72期選抜試験の勉強でまだ覚える必要があるくらいの時間では人類は月に住居を用意できるようになった。あとはコーヒーをはやく淹れるだとか、寒くても気温は15度以上にするだとか、ごまんと存在するQOLに関する不満をウン百年かウン千年くらいかけて、僕らのあとに解決していくのだろう。

「君はー何をしているー。雨はーいつかやむだろう」

 歌が流れる。

 ずいぶん遠くまで来たものだ。

 ***

 生きることにわずらわしさを感じるようになったのはいつだろうか。

 先進国の中流家庭に生まれて、それだけで地球上の1割の恵まれた人間だそうで、何不自由なく育っていけていいですね、なんて、グローバルで知らん人から嫌味を押し付けられても、困ったことに自分で選んだわけではない。じゃあ仕方ない恵まれた責任とやらをまっとうしようと生きてみれば、劣等感と学歴意識の強い平凡な両親になにかにつけてエリート志向を求められ、文武両道、英才教育、論理思考に地頭思考、高いモラルで他人の気持ちをおもんぱかり、自分の意志を貫いて、やれ外国語だ、チームスポーツだ、投資だ、AIだ、芸術だ、起業だ……。ずいぶんぎゅうぎゅうに要望され、しかし子供とは素直なもので、馬鹿みたいに従順に期待へ応えようとした結果、おかげさまで進学校・有名大卒の学歴エリートで、資格やら語学やらもそれなりに堪能で、側から見れば順風満帆な、まさに地球に1割の恵まれた人間になったらしいものの、特別なにかに突出しているわけではないから凡人と言えば凡人だし、得たものすべてがいちいち自分のもののような感じがせず、常に感じるのは合わない衣服を身にまとったような違和感ばかり。両親に感謝する気などカケラも湧いてこないのだった。知識ひとつ、学歴ひとつ、資格や技術能力ひとつとっても、なんで自分にこんなに必要なのだろうと思ってしまう。大人になったときこんなところまで来させてもらったではなく、こんなところに来させたと迷惑に思うことのほうが多かった。心のなかではずっと「それが一体なんなんだ」と考えていた。そんな風に考えてしまう自分はなんて身の程をわきまえず、傲慢で、厚かましい魂をもった人間なのだろうと思った。自分で選んできたくせに。

 結局、単純な話で、僕は自分がじゅうぶんな大人になるまで、のだ。馬鹿みたいな話だけど本当にそうだった。コンプレックスうんぬんではなく、見放されたあと、どう生きていくものなのか知らなかったから怖かった。何を言っているんだ、生きかたなんて、なんでもいいから働き口を見つけて低賃金でも搾取され放題でも金を得て、食いつないでいけばいいだけじゃないか、そんなことも知らないのか、いっぱしにプライドばっかり高い金持ちの格好つけめ、とかいわれたら返す言葉もないのだけれど、それは半分正解で半分そうじゃない。それ以下なのだ。

 はっきりいって先進国でそれなりの社会資源に恵まれて育っていくっていうのは、ほとんど、己の生活の核心を自分以外のなにかに譲り渡したまんま育っていくのと同義だといえる。だから実際の生きかたそのものを僕は知らなくて、わからなくて、先が見えなくて怖気付いてずっと膝を抱えていたというのが正しい。エリート志向、教育志向の親が、社会に放り出されたあとに食い扶持を探す人間の(彼らからするとみっともないらしい)ごく現実的な生きかたをチラリとでも教えてくれるなんてことはなく、僕が子供の頃は世間だって理想的な世界のありかたばかりうたっていて、生きかたのリアルな部分は巧妙に隠蔽されていた。

 頑張れば報われる。努力は正義。正義が勝って悪が滅びる。世界は平等で道徳心にあふれており、すべての人に誠実であればすべての人に幸福が訪れる。まんまと僕はふんわりとしたものを学んでしまった。そこで言われていることの大方はわかる。理解することができる。できるけれど僕らが本来、必要としていたのはそういうことじゃないとも思う。

 例えば衣服はどの程度、寒さによる死から自分を救ってくれるのかだとか、穀物、肉、野菜がどれくらいあれば人ひとりの命を長らえさせることができるのかだとか、近所の小さな工場や市場が実際にどういう営みをしていて、そこの労働者たちがどういう風に生活を成り立たせているのかとか。キャベツはひと玉いくらでそれは自分を何日生かすのに役立つのか。目の前に貸し倉庫会社の社長がいて彼から労働と引き換えに交渉して、いくらむしりとれば自分は生きていけるのか。家は何立方メートルあれば大人ひとりを生かすのに十分か。服は何枚あれば死なないか。水は一日の生活に何リットル必要か。そういうことから知りたかった。しかしそれらは当然、最初から備わっているのもの、あるいは社会に出れば自然と身に付くから今、必要ないものとして、僕や僕の友人たちの教育カリキュラムではさわりを伝えられるか無視された。そして驚くべきことに実際、先生に聞いたところで彼らだってたいしたことを知らなかった。

 つまり誰も実際のところ、生きてはいないのだった。では僕はこのあと、どうやって生きていくことができるのだろう? 誰も知らないならば自分自身で考え、調べ、探すしかなかった。しかしいくら探しても、その当たり前に思える事柄の答えは見つからなかった。むしろ些末な疑問ばかりが僕を埋め尽くした。僕はそのたびに怖くなっていった。

 このえなさによる恐怖は、僕にとってはかなり深刻なものだった。本当に呆れるほど視野が空っぽだったのだ。だって周囲の生きている人間たちになにを聞いても、ろくすっぽ彼らは生きかたを知らないのだった。なぜ生きかたを知らない人間たちが生きていられるのかも、もちろん、(僕を含めて)誰も知らない。義務教育から大学まで相当量の知識を頭に詰め込んでおいて、しかし、肝心のについては、生かしてもらっていたばかりで自ら生きたことがないまま、全員がさっぱりだったのだ。だからだんだんと自立が自分に迫ってくるなかで人生選択に出くわすたび、僕はに飛び込んでいく気持ちが強まった。空っぽに飛び込むっていうのは、ほんとうになんにもわからないなかに飛び込むようなもので、それはほとんど自殺するようなもので、いや、まだ自殺のほうが結果が予測できる分、楽かもしれない。とにかく他のどんなものよりも空っぽに飛び込むのは怖かった。

 ***

「君は優しいね」なんてお世辞なのかフォローなのか、やたら言われるようになったのは10歳くらいだったか。もうその頃にはうっかりすればどこかへ逃げてしまいたいと考える癖がついていたように思う。何かにつけて、どこかへいって一人で静かに生きていけはしまいかと夢想を膨らませるようになっていった。

 それにしても君は優しいねなんて、言ってくれたのは誰だっけ。たしかクラスの友達だった気がするな。まだ小学生だったからそのまんま馬鹿正直に嬉しくなっていた気がするけど。少し考えればわかるもんだよな、つまらなくて、度胸もなくて、たいして取り柄もない人間に対して優しいって言葉をあてがうなんてことは。

 そういえば、そのあたりの時期で僕は父のCDから今、聴いている曲を拝借した。それで気に入って、ずっと聴いている。10歳か。そう考えると随分、長く聴いているな。

 途中から生きるのを煩わしく感じているのは、別に自分だけじゃないんだなと気が付いてはきたものの、それと同時に自分の平凡さを認めてしまうのが嫌で「なんだかんだ自分が一番、煩わしいと思っている」という気持ちを無意識的にどこかにずっと残すように立ち回ってきた。

 大学を出て酒や煙草を呑むようになり、友人たちが悩みや愚痴を吐き出しても、聞き役に回るばかりで自分のことは極力なにも語らなかったのは、おそらく「もっとも辟易している自分」というのを、どこかで鼻にかけていたからなんだと思う。そんな愚かしいこと相手に伝わっても困るのでおくびにも出さないでいたら、いつのまにか僕はまた「優しいやつ」になっていた。そうじゃないんだとも言えずにいたら、いつのまにか本当に「自分は優しい人間なのかもしれない」と、思うようになっていた。

 その自惚うぬぼれみたいな自己暗示は深まれば深まるほど、なぜか悲しい気持ちを強めさせた。悲しい気持ちに酔っているうちは楽だったが、今度はいよいよ悲しさが体を蝕むようになってきて、思わず気持ちにふたをするため無関心になった。

 無関心になるのは簡単だった。人を見送ればいいのだ。いい奴だろうが優しい奴だろうがなんだろうが、まわりの人間とはどうせ一時の付き合いなのだ。学校を卒業したり、仕事のプロジェクトが完了したら人間関係は尻すぼんで終わる。いつのまにか疎遠になっていく。だったら一定の距離を置いて、優しい人間で始まり、優しい人間で終わらせるのはいいことだった。微笑みで始まり、微笑みを継続させ、微笑みで終わる。微笑み以外に繋がるものを無視する。うん、楽でいい。僕は通り過ぎていく人々を何度も何度も見送った。自分がどんどん無力な人間になっていくのがわかった。

 僕はある日、自分が世にごまんといるのひとりであることを自覚した。顔をもたない人間になったことは恐れていたのとは反対で、とても清々しく穏やかな気持ちのするものだった。その清々しさに、僕は思わずワインをグラスへそそぎ、独りで乾杯した。僕は自分自身の顔のなさを愛した。おそらく自分に訪れたできごとのなかでも、それをかなり好ましいものとして受け入れた。

 ***

 父から拝借した音楽の歌詞が月へ行くものだと気がついたとき、自分の生きてきた道のりの、あらゆる複雑な糸がまっすぐにつながったような閃きを覚えて、僕は「月に棲みたい」と考えるようになった。煩わしさからの脱却。夢想の実現。あれほど押し付けられていると感じていた自分のキャリアをありがたいと感じ、両親に初めて感謝する気にもなった。大学を卒業してすぐ、いくつか宇宙飛行の能力開発が研修にある仕事に就いた。就職するのと同時に月面生存適用可能性試験への希望を出し、必要な試験勉強を始めた。

 当たり前のように両親は僕が月にいくのに反対した。

 そんなことのためにおまえを育てたんじゃない。月なんか別の人間に行かせればいいだろう。月はおまえの子や孫だとかの頃にやっと行ったり来たりができるようになるくらいなんだ。行ったら帰って来れない片道切符の場所なんだ。それにまだ月では子供を作ってもいけないしひとりっ子のおまえは子孫が途絶えてしまうってことだ。行ったら必ず後悔する。が当たるぞ、この親不孝者。

 僕はひととおりの言葉に相槌を打ち、無視した。言い返しも弁明もしなかった。ただ「そうだね」だとか、「はい」だとか言って、彼らが無言になるのを待った。別にもう見捨てないでほしいだとか、許してほしいだとか、思うこともなかった。そのとき僕はもう自身の想像で生きかたを模索する必要がないくらいには、十分に情報が届く大人になっていたし、しかし彼らの言葉に共感して引っ張られ決断を保留してしまうほどには、人生を長く生きていなかった。

 第72期の月での仕事はただただ生存を目的とするものだったから、本当にただ月でふつうに生きるってことを了承すれば、それ以外には何も仕事らしい仕事の必要はなかった。つまり金の心配だとか、生活の心配だとかのために動く必要がなかった。むしろ大規模な商行為や開発行為だとか、戦争・破壊行為だとか、宗教啓蒙だとか、は禁止されていたし、その特別な行動のなかには生殖も入っていた。別にセックス自体は禁じられてなかったけれど、許可のない妊娠、出産は禁じられており、万が一の場合、中絶もあり得るとのことだった。

 また禁止事項ではなかったけれど、地球への帰還は試験の放棄と見なされ、もう月に戻ることはできないため、事実上、月にいたいならもう地球に帰ることはできなかった。つまり月ではそれなりにが重宝された。僕にとってはおあつらえ向きの条件だと思った。

 ***

 施設管理部を抜いた試験住民28人の選抜に僕は残った。ある程度の宇宙飛行能力があり、かつ肉体的にも精神的にもである人間というのは、実際、募集をかけてみるとそこまで多くは残らないから、ある意味で君たちは特別なんだとプロジェクトオーナーが半分ジョークみたいなことを言った。地球に残り、一生かけて僕たちを見守る彼は「Have a nice moon life」と出発する前の僕らに言葉をかけて、その場を立ち去った。

 月に住むメンバーのひとりに「ただ暮らせばいいだけなんて、こんなに待遇のいい仕事に就いていいものかね」というと、彼は皮肉げに笑って「気にすることはないさ」と言い、そのあと「ただ生きているだけといっても、見返りは十分、地球にいる人間たちがとっていくんだ。まあ、高待遇なを十分に堪能しようじゃないか」とつづけた。彼はプロゲーマーを目指していたけれど、あと一歩のところでなれなかった人間だそうで、もうプロになる熱意はないけれどゲームはやっぱり好きだから、月へ行ったら存分に(高待遇な家畜として)ゲームに興ずるのだと言った。

 家畜か、たしかにそれもそうだなと思うと妙に腑に落ちて、気持ちがいくらか冷静になった。徹底的ではないものの月での生活はある程度、監視もされるし、生活の様子を地球でニュースメディアなんかで勝手に紹介されるらしいし、自分の体調変化やら精神変化やらは逐一データとして収集されつづける。なんだかんだ収容所での人体実験だとか、動物園のキリンやパンダだとか、言いようによっては自分もその類といっしょになるのだと考えれば、確かにそうなのだった。

 自分が希望しているか、希望していないかだけの話だ。

 皮肉まじりで始まった月での生活だったが、思っていた以上に快適だった。何しろ静かで、生活に追われるものがなく、誰かから何かを急かされることもないし、健康状態を著しく損なわなければ、日常生活も厳しい決まりはない。ついでに昼夜も地球とは違うから、それぞれ好きなときに起きて、好きなときに食べ、好きなときに眠ってよいものとなっている。たくさん本を読んで、見たかった映画を観て、健康を損なわない程度にトレーニングやランニングをして、たまにコミュニティ内の人間と会話を交わし、折々、青く光る地球を眺めて過ごした。月ではほとんど、当初、考えていたとおりの生活ができた。

 ***

 音楽がつづく。

「夜はーどこからともなく、ぼくたちをー包み込む……

 歌詞について本当だ、と思う。

 月の夜はどこからともなく僕たちを包み込む。基地内にいるといつのまにか夜がくる。長い、長い夜。ずっと暗く、とても寒い夜が。地球にいた頃はこんなにも昼が待ち遠しく感じるものだなんて知らなかった。今、自分は寂しいのだろうか。ふと思う。月の昼夜は自分の感情の起伏をゆっくりと平坦にさせ、そのぶん、訳もない寂しさを強めさせている気がする。それともつづけてきた無関心が、今頃、蓋をあけて自分を飲み込んできているのか。

 なんとなく歌をハミングしたくなる。

「ヘイ、みんな、元気かい……♪ ヘイ、みんな、どうしてるー……♪ ヘイ……

 心の友達。そんなものいたかな。

 小学生のときに優しいと言ってくれた友人を思い出した。そうだ、クラスで1番、頭が良かった女子だった。僕はそこまで話す間柄じゃなかったけれど、そもそも一学年一クラスだったから、6年間でまったく話さない友達を作るほうが難しかった。わりと誰にでも気さくに話しかける女の子だった。特別に明るいってわけではないけれど、暗い性格でもない。こざっぱりとした子だったように記憶している。

 音楽の授業が終わったあと、みんなで楽器を片付けているとき、僕を含めた男子の数人がふざけて鬼ごっこをして音楽室をかけまわっていた。例によって委員長とか風紀委員の女子が何人かそれに怒って、男子は彼女たちをおちょくって、それで風紀委員の女子が泣いた。いつもそれで男子たちは逃げて、あとで担任の先生に帰りのホームルームで説教されるのがお決まりの流れだった。

 僕はその説教がいつもいやで、だからそのときは男子たちと逃げたように見せかけて音楽室に戻り、泣いた女子に謝ったり慰めたりしてフォローしておくことにしたのだ。そうすれば泣いた子も落ち着いて、先生からの説教もなくなるだろうと踏んでいた。

「優しいんだね」と、女の子から言われたのは、そのあとだった。音楽の片付けのとき、泣いちゃった〇〇のこと、慰めて片付けもやってて、本当は優しいんだねと彼女は微笑んで言った。その姿が小学生なのにまるで誰かの母親のように見えて、しかも僕は先生の説教を回避するためだけにやったことを優しいと言われ、どうしていいものかわからず「いや」とだけ返事をして、その場を去った。しかし彼女は本当に僕のことを優しい人間だと思ったらしく、そのあともことあるごとに僕へ「優しい」、「優しい」と繰り返し言っていた。

 その子はすごく頭がいい生徒だったけれど、中学校へ行って途中から姿を見せなくなって、ウワサでは精神的な病気で休学したあと、結局、中学校を中退してずっと家にいるみたいだと聞いたことがある。頭のよさっていうのが人間の優劣に直結すると思っていた単純な僕だけれど、彼女が休学したウワサを聞いてから、いろいろなことの結論を保留するようになった。

 彼女は今、どうしているだろうか。

 ***

 月の穏やかな生活のなかで僕はいろいろな人間のことを思い出す。ここで過ごしていると、今まで見送って、通り過ぎてきた友人たちのさまざまな顔が浮かぶ。小学校の友人だけでなく、中・高のクラスメイト、大学の友人、社会人時代の友人たち。虐められていたけれど助けることができなかった子、大声で笑いながら教室でふざけあった彼、試験の点数で幼稚に牽制しあった彼女、居酒屋で半分泣きながら愚痴を言っていた者や、会社でうまく駆け引きしているつもりがみんなから憎まれていた者……。いい人間も嫌な人間も、かわいそうな人間も、腹立たしい人間もいた。

 ――それで?

 もう会うわけじゃないのだ。彼らとは。通り過ぎてしまった人々について考えても、何か変わるわけじゃない。感傷的にでもなっているのだろうか。こんなにも快適なのに。

「さて。なにしようかな」ぼんやり僕は考える。月の夜にゆったり浮かび上がる地球の、真っ青な姿を窓の向こうに見ている。静かな月の上では誰もが人恋しくなるのかもしれない。極低温へ近づく宵闇で、陽気なギター音はちょっと浮いていて、しかしそうじゃないとこれから始まる長い長い寒さになにかが負けてしまいそうな気がした。6分の1のふわふわと軽い身体が今だけはかえってありがたい気がした。苦味のあるチョコレートを食べようか。僕はそう考えパントリーへ歩き、その途中で「そうか」と気づく。

「フレンチプレスならコーヒーがはいるじゃないか」

 なぜ今までこんなに簡単なことに気がつかなかったのだろうと、自分のことを不思議に思う。音楽がやむと、まるで世界が時間を止めてしまったかのように、静寂がキッチンを包みこんだ。

※引用楽曲:『Hey! みんな元気かい?|Kinki Kids 作詞・作曲:YO-KING』

(了)