ワンデーコンタクト・ビフォア・ナイト|24,574文字

ワンデーコンタクト・ビフォア・ナイト遙夏しま2021・05

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 はじめて乗ったバイクの後ろはぜんぜん乗り心地なんてよくなくて、信号が青になるたびものすごい勢いでわたしは後ろへ引っ張られ、道路のデコボコのたび跳ねるように揺れて、振り落とされてしまいそうなのが怖くて怖くて、わたしは必死に汗ばむ彼の背中を抱きしめていて、しかし騒音と振動のさなか背中から伝わる拍動はきちんとわたしに伝わってきて、わたしはなんだか、いいのかなと思っていた。

 夜の光は人生でもっとも速く動いてて、耳元にはエンジンの音が巨大なおおかみの唸りみたいにどるんどるんと張り付いしまって、夏を前にした街は、湿った空気と浮ついた匂いをびゅーびゅーと私にぶつけては、鼻腔の奥にずっと忘れられなくなるであろう記憶を充満させてきて、いいのかなと、やっぱりわたしは同じことを思った。

 ***

 中学生だった頃、わたしはおとなしい生徒だったけど、別に勉強ができるわけじゃなくてバカだった。

 わたしが通っていた中学校は県内でも時代遅れに荒れているので有名で、入学したときには赤い特攻服を着た三年生の先輩数人が奇抜なカラーリングのバイクにまたがり、学校中を揺らすかのようなぶおんぶおんという巨大な騒音をだして校庭を走り回り、教員が数人でそれを追いかけまわしていた。バイクのうしろにはたが立ててあってそこには「夜露死苦」と筆で書いてあって、わたしは教室の窓からその様子を全力で引いて見ていた。

 わたしの近くにいた、剃りあげたみじかいまゆげを眉間みけんにちょっとだけ残して、髪をヘアワックスかなんかでオールバックにしたような男の子が「うぉっトッポい」と羨望せんぼうのまなざしで見ていて、それにも全力で引いていた。

 わたしは制服の着こなしはごくごく標準的だし、髪は染めずに紺色のヘアゴムで後ろに結んでいるだけだし、あと眼鏡めがねをかけていた。だからなんとなくみんなから勝手に勉強好きだと思われてたっぽい。入学して夏休みの前までにはクラスの子たちから陰で「ガリ勉」とか「図書メガネ」とか言われているのにも気づいていた。友達もそんなにいないし、言い返すこともできないから放っておいたけど、実際はぜんぜん勉強できないし、やる気もなくて、かといって運動も得意じゃないし、好きなのは給食くらいで。実際、帰宅部だし、まあ家に帰って好きな音楽とか漫画とか本とか動画とか? ただそういうのをなんとなく楽しむ時間はいっぱいあったし、すくない友達とそういうの教えあえたら幸せだったし、とにかく別になんだっていいやと思っていた。

 まわりの子は中学にはいって小学校からいっしょにあがった子とか、運動部にはいってすごいさわやかになってたり、なんかメイクとか始めて別人みたいにかわいくなってたり、休み時間とか体育の待ち時間とか掃除のときとか、あいまあいまの会話にすっかり恋バナが定着してたりで、どんどんみんな変わっていった。いまだに小学校から好きだったアイドルの話と、昨日見たゲーム実況の話しかネタのないわたしは明らかにまわりの子と話題がズレてきていて、「ぶっちゃけ誰か好きな男子いるん?」とクラスで一番美人の女の子に真顔で聞かれたときも、「え? あ? えあー?」と変な動物の鳴き声みたいな返事をしてしまって、きっとそのときからだろう、どうやら裏で呼ばれるあだ名が「エアメガネ」に変わったみたいだった。

 でも別に恋愛に興味がないわけではなかったし、だってアイドルの男の子おっかけてるんだから、好きな男子くらいできてもぜんぜんおかしくないでしょうとは思っていたけど、これといって学校で好きな男の子はいなかった。いなかったっていうか、好きになるほど、誰とも交流してなかった。小学校までほとんど気にもとめたことなかったのに、いつのまにか男子と女子はあらゆるところで区別されるようになっていて、それが程よいスパイスになったみたいな空気でまわりの女子たちは「誰それがかっこよくて」とか「誰々が好きすぎてヤバい」とか、チラチラあちこちを見ながら盛りあがっては、あの手この手でその男女の区別を乗り越えて、ちょっと腕触ったり、ハイタッチしたりしちゃあ、更衣室とかトイレとかでキャーキャー言っていたし、わたしはそれをただ見ていた。

 ただ見ていたけれど、わたしはそれがうらやましかった。いや当時は羨ましいと思っている自分を認めたくなくて「ありゃみっともない」とちいさくさげすんで見ていた。でも羨ましかった。そしてそう思うと同時に、「わたしはとは関係ないキャラだからなぁ」と考えていた。つまり恋愛には縁のない。授業をまじめに受けて、ふつうに学位を得て、卒業していくタイプの、メガネ女子だと考えていた。恋バナとか、誰それかっこいーとか、クラスの〇〇が実は好きでーとか、バレンタイン本命チョコ作っちゃおーとか、決めたアタシあした告るーとか、何を言っとるんだ、トレンディドラマか、色気づいた中学生風情がよーと、同じ中学生のくせに上から目線で斜に構えてみていた。だから差別化のためにメガネの色を赤くして、髪に申し訳程度のエクステをつけてアップめにして結び、ヘッドホンをお母さんに買ってもらって、洋楽とかテクノミュージックとかをたしなんでます風にしたけれど、ヘッドホンかけたからって、別にまわりの子たちのわたしへの興味が増すなんてことはなく、わたしはエアメガネのままエアメガネ感を増したキャラとしてそのまま中学3年生になって、夏、高校受験へむけて友達と夏期講習の説明会にいった。

「勝負は夏」というコマーシャルそのまんまみたいな説明をうけたあと、個別面談で「まじめそうなのに、なかなか受験は大変そうだね」と、塾講師から遠回しにバカといわれ、散々な説明会が終わるころにはすっかり外は暗くなっていた。迎えがきていた友達とは塾でわかれ、わたしは帰り道の途中、コンビニでアイスを買って家からすこし離れた公園で食べてから帰ろうと思った。わずかに残っていた夕暮れの光はコンビニを出るまでにはなくなっていて、外ではもうすっかり蒸し暑い真夏の夜が始まっていた。

 荒れている中学校の学区だし、夜の公園は場合によっちゃ危ないんだけれど、わたしの近所には街灯とベンチと高齢者が背筋を伸ばす器具しか置いてないちいさな公園がぽつりとあって、そこは街灯が明るいし、犬を散歩する人々がよく通るし、わりと見通しもいいので夜ちょっと気分転換するときの穴場として活用していた。

 すぐに溶けてくるアイスに急かされて、小走りで公園に近づくと、ベンチに先に座って煙草たばこを吸ってる人がいた。しまった先約がいたかと遠まきに様子をうかがうと、その人は私の中学校の指定カバンを足元に置いていた。やばい、不良かと思ったけれど、どうやら見たことある顔だった。隣のクラスの外村辰哉とむら たつやくんだった。有名人だ。サッカー部で主将をやってて、なのに学業優秀でクラスの委員長とかも兼任してて、うちのクラスの一番美人の子がこないだ告白してた。

 彼みたいなタイプの人なのに、こんな公園のベンチで煙草を吸っているってことが、わたしにはすこし怖かった。煙草を吸うキャラじゃないのだ。サッカー部で主将をしていて、今回の期末テストで学年トップ10に入ってて、絶対、県内の有名進学校への推薦とかもらえるキャラの人は、本来、煙草を吸わないものなのだ。煙草を吸っていいのは、実家が酒屋で学生時代はバイクで荒れまくってた中卒の親父がいるみたいなタイプとか、ボロボロの団地に住んでて父親がアル中で母親がパチンコ依存症で常に誰も家にいないとか、両親が教育モンスターで将来は東大でて外交官か医者になるしか選択肢がない代わりにその期待を盾にとって親の金つかって好き放題やっている強者とか、そういう子だけしか中学で煙草を吸ってはいけないのだ。

 彼は絶対、そういうのじゃない。彼がわざわざ夜に人目を盗んで、公園で煙草を吸う意味がわからなかった。そういう不良的怖さは彼にはプラスに働かない気がした。とにかく意外すぎた。そして彼が「あれ岡本じゃん」と、隣のクラスの地味なメガネ女子を知っていて、なにごともないように、わたしの名前を呼んでくれたのも、これまたあまりに意外すぎて、少し怖かった。

 ***

 わたしは溶けかけのアイスをもったまま、外村とむらくんのほうをむいて「へへ」とひきつった笑顔をむけた。どう反応するのが正解なのか、本気でわからなかった。彼はそんなわたしの混乱にまったく気が付かないかのように、右手をあげて手をふり、手まねきのような仕草をした。混乱していたわたしはなにも考えず、外村くんの手の動きどおりに公園へ入り、ベンチに座る彼の前まで歩いていってしまった。彼が「家近くなの? なにしてんの?」というのをそのまま受けて、「家から塾までの通り道なの。アイス食べようと思って」とアンケート回答みたいに答えると、彼は思ったよりもふつうに自然に「いいね、アイス。俺も食べたい」と言った。

 わたしは1秒間のあいだに、待ってわたしあなたとそんな自然に日常会話を交わしたことあったかしら学校で話したこととかないよねなんでわたしの名前知ってるのわたしはあなたの名前知ってるよそりゃだってあなた有名人だもんサッカー部の主将ってだけですでに有名なのに学年トップ10だし学級委員長やってるでしょだから委員会のときに会うのよわたし書紀やってるんだもの制服姿ばっかり見てるからサッカー帰りのジャージ姿新鮮だねTシャツ泥だらけじゃんすごい練習頑張ってるんだねキャプテンだもんね腕とかふくらはぎの筋肉すごいねスポーツ青年って感じだね思ったよりまつ毛長いんだねっていうかこれじゃまるでわたしたちよく公園で落ち合ってるみたいじゃないの毎夜毎夜わたしが煙草をもらっていっしょに吸ってるみたいじゃないのやめてよそんなキャラじゃないのわたしってあなたもそういうキャラじゃないでしょっていうかこないだうちのクラスの美人から告られたのOKしたのか断ったのか噂になってるんだけど教えてよどうなのよ、と考えたけれど、なにひとつ気の利いた返答が喉まで出てこないで、「え、食べたいっていわれても……」とだけ言った。

 外村くんは軽やかに笑った。すこし赤っぽい、彼の前髪が揺れた。笑いながら「いやさすがにとらないよ」と彼はいった。その笑顔は思ったよりも中学3年生で、黒くて背が大きいから、いつもなんとなく大人っぽいと思っていたけれど、なんだかんだわたしと同い年なんだなと思った。

「ごめん、アイスいいねって言いたかっただけで、もらうつもりはなかったんだ」

「あぁ……。そっか、そうだよね。はは……

「ここで食べてくの?」

 わたしはアイスを見た。気まずいから家に帰って食べたいと思った。でも、すでにカップのバニラアイスは周囲が液体になってきている時間帯だった。悩ましい。でもここで煙草をふかす外村くんといっしょに、ほどよく会話などかわしながら、まったりとアイスを味わい堪能できるわけがない。いやぁ夜に食べるアイスは格別ですなぁ。外村くんは煙草ですか。いいもんですか? そうですかそうですかとか。あほか。

 わたしの表情をみて悟ったのか、外村くんは煙草を地面に落として、靴で踏んで火を消した。煙がフワッとあがり、初めてわたしは大人がいる空間でしか嗅いだことのないあの煙の匂いを、鼻の奥に感じとった。そうするとついさっき同い年だと安心した、彼の笑顔や肩幅なんかが急にまた遠くのほうへいってしまって、彼はすこし怖い大人になった。

「俺、いくよ」といって彼が立ち上がる。わたしが何も言わないでいると「ごめん、関係ないから別に誰にも言わないと思うけど、これ一応、秘密でお願いできる?」と足元でくしゃくしゃになった煙草を指差してから、手のひらを顔の前に立てて、笑顔でごめんねのサインをした。わたしは条件反射的に何度も首を縦にふった。

 足元のカバンを拾いあげ、外村くんがベンチから離れる。「じゃね」といってわたしの横を通り過ぎる。夏の匂いがする。その瞬間、わたしは「なんで煙草、吸ってるの?」と振り返って彼に言った。言ってから、なぜ自分の口からそんな質問が出たのか、その原因究明 第一回わたしバカなんじゃないの大会を脳内が大慌てで開催しはじめて、わたしは顔や耳たぶがものすごい勢いで真っ赤になっていくのを自覚した。

「え? 煙草? 俺がなんでって?」

……あ! いまのなしで!」

「なしなの?」

「うん! なし! だって人それぞれだもんね! 人それぞれ事情はあるだろうし! 吸うこともあるし、吸わないこともあるし! わかるわかる、うんうん!」

「は?」

 一瞬、間が空いてそのあと、外村くんが吹き出して笑った。わたしは血流がすべて顔面に集まって、鼻血が出るんじゃないかと思った。恥だ。恥ずかしい。なに問い詰めておいて、人の事情をくんだ風の発言をしているんだ。わたしの目の前でくっくっとおなかを抱える外村くんは、ひとしきり笑うと「岡本っておもしろいんだね」といって涙をぬぐった。わたしはだいぶ不本意だった。

 わたしはこの恥を誤魔化すために「アイス、溶けちゃうから食べるね」といってベンチに座り、急いでバニラアイスを食べ始めた。こうなったらもうどうにでもなれだ。外村くんと気まずいの一線はもう超えてしまった。ならばアイスが優先だ。アイスアイス。

 予感どおり、アイスは周辺が液体化しはじめていた。家まで持って帰っていたら、半分以上、溶けてしまっていただろう。今がベストだ。今しかない。食べて帰ろう。食べて、さっさと帰ろう。スプーンを袋からだして、溶けた部分と凍っている部分とをすくって食べる。甘い。おいしい。今日の散々な説明会も、外村くんとの恥ずかしい一件も、今はこのあまーいバニラがすべてを許してくれる。あぁバニラアイス。わたしの至福。

 外村くんを意識しまいとアイスに集中するほど、あきらかに外村くんがわたしを見ているのがわかった。やめてよ。もう前言撤回したんだから帰ればいいじゃん。別に学校でも話したことないでしょ。わたしみたいなメガネとこの先、未来永劫、関わる必要もメリットもないでしょう。なに? なんなの? わたしの主観ばりっばりに詰め込んだ、おすすめのテクノポッププレイリストでも聴きたいの?

「岡本、バイク乗る?」

「へ?」

 外村くんはやさしい感じに微笑んで、でも冗談をいったでも独り言をいったでもなく、あくまで真剣にわたしを見ていた。

 ***

 わたしがアイスを食べ終わるのを待ちながら、彼はポケットに忍ばせた煙草をだして火をつけ、もう一本吸っていた。ファミレスとかの入口で大人がやってる、手慣れた動きとだいたいいっしょだった。煙草を吸っている彼をちらりと見ると、なんだか別においしそうな感じではなかった。でも煙草の先の煙が消えて、しばらくしてふぅーっと真っ白く出てくるたびに、どうやら外村とむらくんの張り詰めたような気持ちが、玉ねぎの皮を一枚はぐみたいな感じで段階的に落ち着いていくんだということはわかった。なんで張り詰めてるのかは知らないけれど。

 わたしはこういうときアイスを急いでかき込む方が気がきく女らしいのか、それともおちょぼ口で可愛らしくもったいぶって食べるのが女らしいのか、そういう別に興味もないことについて思いを巡らせて、思いを巡らせることで微妙に日常を乖離してきたこの状況をなるべく深く考えないようにしていた。

「煙草吸う理由だろ?」と、さっき外村くんは言った。わたしがはぁという感じでうなづくと、「まあ大した理由じゃないんだけどさ。あるんだよ。で、教えたいんだけど、うまく言葉では説明できないんだよね。そんで……そう、バイク。岡本、乗ってみない? この先に置いてあるんだ。俺、けっこう運転、うまいんだよ。それ乗るとちょっと説明しやすいっていうか、教えやすいっていうか……」と、彼は言葉を探すようにして説明した。彼自身も今、自分が口から放った台詞せりふを自分のものとしてうまく把握できていないような感じだった。

 わたしは彼のバイクの運転の安全性だとか、なぜ中学生がバイクを運転できるのか(免許をもってないだろうという当然の疑問)とか、夜にいきなりバイクに乗せようとしてくる彼の意図が本当に煙草を吸う理由の説明だけにあるのか(まさかとは思うけど、不良集団のところに連れてってお金をせびる可能性もないではない)とか、そういうのをひととおり勘案しようと思ったけれど、それをやめた。

 バイクに乗らないかと言っているときの彼は疑うにはあまりに真剣で、誠実だった。そして恐らくわたしへ強い興味や関心をもっておらず、そのわずかに陰った視線の向こうには、わたしではなく何か別の得体の知れないものが映っていることは、バカなわたしにもすぐにわかった。いったいそれがなんなのか気になった。あと単純にバイクに乗ったことがないので乗りたかった。ワクワクした。一瞬、入学式のあの真っ赤な夜露死苦たちの乗ったバイクを思い出したけど、たぶん外村くんはそういうのには乗らないだろう。

「わたしがバイクのうしろに乗るってこと?」と彼に聞いた。外村くんはパッと表情を明るくして、「うん、そうそう」と言い、「大丈夫、安全運転するから」と付け足した。わたしは無免許の人が運転するバイクの安全運転とはなにかと思って苦笑した。

 公園から歩いて10分もしないところにシャッターのしまったバイク屋さんがあった。バイクガレージとでもいったら正しいだろうか。彼はそこのシャッターへ近づくと、なにごともなさそうにガラガラとシャッターを開けた。「ここ外村くんの家?」と聞くと「ちがう。いとこの家」と言った。シャッターが開くとバイク屋さんは当然、閉まっていて明かりを消していた。でもその奥にある(おそらく)住居空閑から灯りが外に漏れた。外村くんがガラス扉を開けるとその灯りのほうから「タツヤか?」と男の人の声が聞こえた。「うん、また貸して」と外村くんがいうと、「今日は国道のほうに警察まわってるみたいだから、いくなよー」と男の人が答え、「わかった」と外村くんが返して会話は終わった。

 そこにあったのは真っ黒なビッグスクーターだった。わたしにはそれが獰猛な黒い熊を思わせる不気味な塊にみえた。怖かった。外村くんは「まあ俺が乗れるのはバイクっつってもスクーターくらいなんだけど……」とぽりぽり頭をかいたあと、座席部分をあけてフルフェイスのヘルメットを取りだし、わたしに渡すかと思ったら、そのへんに置いた。そしてヘルメットの下にあった煙草の箱をひとつとると、自分のカバンにしまった。そしてそのまんま店の外へバイクをだした。わたしはただ外村くんに金魚のフンみたいにくっついてまわった。

「商店街の方のコンビニまでいって帰るくらい。往復15分もかからないよ。大丈夫?」

「あ、うん。時間はだいじょうぶ。でもヘルメット……

……かぶりたい?」

 そう聞かれると、ジャマだし、夏場で暑そうだし、別にかぶりたいとは思ってなかったので「いらない」とわたしは答えた。どうせ無免許で中学生ふたりが乗りまわすんだ。もはやヘルメットもなにもないや。安全運転っていってたし。

 外村くんはわたしを見てそうこなくっちゃって感じで笑顔になった。なんだか知らないけれど、わたしも嬉しくて笑顔になった。小学校のときとか友達とイタズラをたくらむときとか、こんなだったなぁと思い出して懐かしくなった。ほんの数年前のことなのに何十年も時間が経ってしまったような気分だった。小学生だったときの子供の自分と、今の子供の自分と、いったいなにが変わってしまったんだろうと不思議に思った。

 バイクの後部座席への乗りかたをおしえてもらい、いそいそとまたがると、外村くんが「嫌じゃなきゃ俺につかまって」といった。なにごともない風に「ありがと」といって手をまわしたけど、思ったよりもたくましくて、なのに細くしまった彼の胴回りと、その細さに似合わないやけに熱い体温のせいで、わたしの心臓は急にペースをあげてかたく弾んだ音を鳴らした。でもその瞬間、彼がバイクのエンジンをかけたので、そういった諸々は全部、バイクの音に吹き飛ばされ夏の夜にうやむやになった。

 ***

 バイクは速かった。実際のスピードでいえば、たぶん制限速度内で時速40キロとか50キロくらいのゆっくりした運転だったんだろうけれど、初めてバイクに乗るわたしにはとんでもなく速く感じた。熊じゃない、虎だ、いやヒョウ……ちがう、チーターだと、わたしは次々、印象をあらためた。耳を切るような風がびょうびょうと通り過ぎた。髪がものすごい勢いで揺れ、顔に張り付いた。頭のなかが事故のことばっかり考えた。外村くんは別に嬉しそうでも楽しそうでもつらそうでもなく、前を見て運転していた。

 しばらくするとバイクのスピードにも慣れてきて、わたしはまわりの景色を見るくらいの余裕ができてきた。商店街の裏通りの人が少ない道をバイクは走っていた。街灯の光がひゅんひゅんと流れていった。夜の木々が頭上を通りすぎた。鼻の奥にいろいろな匂いが訪れては消えた。蒸し暑い夜の風が、なぜかどこまでもきれいだと思った。

 そのうち、わたしがさっき説明会を受けた塾がはいったビルが向こうに見えた。あっというまに戻ってきたなと思った。「だいじょうぶそう?」と外村くんが言った。バイクの乗り心地のことだと思って、なんとか、とわたしは答えたが「え?」と聞き返され、そうか風かと思って「たのしい!」と大声で言い返すと、彼は嬉しそうに笑った。わたしも笑った。

 わたしがいったコンビニとは別のコンビニに着いて、なにくわぬ感じで駐車場にバイクをとめた。ノーヘルふたり乗り中学生のわたしたちを見ても、誰もなにもリアクションしなかった。別にわたしにも外村くんにさえも、誰もそこまで関心をもってないんだな。こんなもんなんだなと、ちょっと拍子抜けするような感じだった。

「岡本、もうアイス食べちゃったけど……なんかいる?」と外村くんに聞かれ、それはなにかおごってくれるという意味だと気付いたわたしは目を輝かせてアイスコーナーへ再び足を運ばせた。夏場のアイスなど何個食べたっていいに決まっているじゃないか。「やばい、ありがと!」といってキョロキョロするわたしに「高いのは勘弁!」と慌てていう外村くんがすこしかわいかった。「次はガリガリくんいかせてもらう」といって、彼の持ったカゴにガリガリくんを入れると、外村くんはわたしが食べてたカップのバニラアイスを手に取って、ちょっと罰が悪そうに笑った。「なんだ、ほんとに食べたかったんじゃん」と言ってみたが、そのあとの会話の流れ的に「言ってくれたら、ひとくち分けてあげたのに」という台詞が思いついて、そんなこと気軽に言えないことに気がついて、わたしはそのまま何も言えずにコンビニのお菓子コーナーへ逃げた。外村くんは別にそんなことは気にしてないみたいで、会計を済ませるとコンビニの外に出た。

「どこで食べようか」とわたしがいうと外村くんは「コンビニの前か、いとこの店の前かくらいしか考えてなかったけど、そうだな……」といってすこし考えてから、「ねえ時間どれくらい平気?」といった。

「時間? まあ別に……うち厳しくないから寝るまでに帰れば……10時とか11時くらい?」

「はは、いいな。そんなかかんないよ。いや……今、7時半か……よしじゃあ花火だ」

「花火?」

「家に余ってるんだよ」

「花火って花火やるの?」

「そうだよ、まさか打ち上げるわけにはいかないだろ?」

「そっち?」

 ふたりでなぜか大笑いした。別におもしろくなかったのに今年で一番おもしろいと思った。なんか涙すら出そうだった。当たり前みたいにバイクの後部座席に飛び乗って、彼は揚々とエンジンをかけて、わたしはずっとやってるみたいに彼の体に腕をまわして、夜景はやっぱり人生で一番速く流れて、わたしはよくわかんないんだけどすごく安心していた。夏の夜に脇の下にかく汗も当然のこととして受け入れられたし、彼も平気そうだし、おそらくきっと本来、ぜんぜん平気なものなんだと心から思えて、脇汗のことを考えているのに、この世界は今、どこまでも美しかった。

 彼の家はバイク屋さんからほど近いところにあって、それは別段、解説するほど特別な家ではなくて、彼はいそいそと玄関の扉を開けると恐らく親になんやかんや言いながら、余っていたらしい花火セットとバケツを抱えて、門の前で待つわたしのところへ戻ってきた。「ほらいっぱいあるでしょ」という彼の顔はやたら自慢げで、なんだか弟みたいだと思った。わたしは下の兄弟はいないけど、もしいたらこういう感じだったのかもなと思った。

「ねえ早くしないとアイス」とわたしがいうと「そっか!」と彼はいって、わたしたちは急いで河川敷に向かった。彼が「ここなら人もいないし、いるとしたら不良だけど、それたぶん知り合いだし、そしてたぶん今日はいない」と言った場所は、橋のたもとにある芝生のスペースだった。街灯からは少し離れていて、たしかにそこは花火をするにはうってつけだった。彼が川でバケツに水をくんできて、さっき煙草に火をつけたライターが、今度はいくつものカラフルな花火に点火をしていった。

「湿気ってないといいんだけど……」と心配する彼をよそにどの花火も元気よく火花を散らした。赤・青・緑・黄色・桃色・白……たくさんの色がばちばちといって、わたしは久しぶりに「わぁ」とか「ぎゃあ」とか言いながら笑った。花火はたくさん余っていた。ふたりでやるには多過ぎるほどにあった。楽しくて、うれしくて、わたしたちは花火に火をつけては大笑いした。たくさんの光がいつまでも私たちの前にあった。ずっと昔、太古の昔からわたしたちはこうやって花火をしていたんじゃないかって、途中、変なことを思った。

 ***

 うっかりアイスを食べ忘れていたことに気がついたのは、大量にあった花火をあらかた片付けて、線香花火に取り掛かろうとした頃だった。休憩がてら食べようと思ったわたしのガリガリくんはすっかりラムネ味の砂糖水みたいになっていたし、彼のバニラアイスもべったべたのただの白いドロドロの液体に変わり果てていた。「うわぁ……すまん」という彼に、わたしは「いやわたしも忘れてたから……」と返して、とりあえずガリガリくんだったアイスの袋を開けて、残った液体をごくごく飲んでみたら、彼は笑っていた。「俺もガリガリくんにすればよかったわ」といってバニラアイスだったドロドロを一応、スプーンですくって食べてみた彼は「甘ぁ」といって舌をべえとだした。

 線香花火に火をつけてしまうのがもったいない気がして、しばらくわたしたちは溶けたアイスで休憩をすることにして、河川敷の土手に腰をおろしていた。火薬の匂いがどうしようもなく愛おしかった。無言がつづいてそれは別に苦痛じゃなくて、いっそずっと続いてもいいなと思えるほどで、でもそんなのはあたりまえだけど無限につづくわけじゃなくて、あるタイミングで外村とむらくんが「そうだ、煙草を吸ってる理由」と言いだして、わたしは「いいよ、もう。途中からなんとなくわかってたよ」と返事をした。

 彼は黙っていた。

でしょ」とわたしがいうと、外村くんは「うん」といって下を向いた。花火が止むと静かだった河川敷はすぐに蛙と虫の鳴き声に包まれはじめて、わたしは夏休み前なのに、自分の夏が今、ここで終わっていくように感じた。

「すごかったよな、岡本選手」と外村くんが言った。「知ってたんだ」とわたしがいうと「うん、俺、小学校のときからサッカーやってて、女子選手なのにちょっとした憧れだったもん」と言った。しばらく沈黙がつづいて、それに耐えられなくなったのか「岡本はサッカーは?」と外村くんが言い、わたしは「ぜんぜん。まったく。姉妹だけどわたしはぜんぜんなの」と言った。そして言うつもりもなかったのに「ぜんぜんで、ほんと、わたしバカだしサッカーどころかなんもできなくて。わたしが代わりに死んだらよかったのにって思う」と言い、外村くんにあわてて「なに言ってんだよ」と言われて、すごく恥ずかしくなった。

 わたしには姉がいた。5歳上の姉でわたしとはぜんぜん運動能力がちがって、彼女は女子サッカーの実力者だった。中学校時代、姉はサッカー部を立ち上げて(というか姉が入学したことで、学校側で女子サッカー部の話がもちあがってあっという間にできたらしい)、そこに姉をしたう選手たちが集まって、たった3年のあいだにその女子サッカー部は伝説的なほどに強くなって、全国大会で優勝した。本当に奇跡のようなチームだったらしい。そして姉はその女子サッカー部の主将をやっていた。

 わたしは歳が離れていて、姉のサッカー事情はよくわかっていなかったけれど、たしかに姉がサッカーボールを蹴っている姿は、まるで魔法をつかっているようだという記憶があった。永遠につづくリフティング。ゴールポストの一角に延々、当たりつづけるフリーキック。足元で彼女とともに動くボール。予想できない動きをしつづけるドリブル。なにからなにまで奇跡のような姉のプレイを見て、わたしは小学生のときに自分もそれができるものなのだと思い込み、サッカーボールを触ってみて、そして現実のあまりの落差にショックを受けて、そのままサッカーから遠ざかった。

 姉のサッカーは誰からも期待を受け、姉自身もそういうプレッシャーをものともせずに躍進やくしんし、わたしの両親はすっかり女子サッカー界をプッシュするような振る舞いを始め、姉は中学校で全国制覇したあと、プロを目指して一直線にキャリアを積み上げようとしていたところだった。

 たった2年前の話だ。

 でも姉は死んだ。それは最初ただの風邪だった。ある冬の初めの日、しばらく鼻風邪をひいていたわたしと姉は同時に熱をだした。季節の変わりめだからだろうと両親はいい、ふたり、それぞれの部屋で寝込んでいた。最近、流行りのウイルスもあるし、気をつけなきゃとねと両親は言っていた。385分くらいの熱がしばらくつづいて下がり、わたしが起き出しても姉の熱は下がらなかった。日頃、練習も激しいからと両親はいい、こういうときだから安静にといって動こうとする姉をいさめていた。そこまで高熱にならないから姉自身も含め、誰も心配していなかった。

 変化が起きたのは発熱して一週間が過ぎたときだった。食事のときにちょこちょこダイニングに起きてきていた姉は、その日、ヒィッヒィッという変な呼吸をしながら起きてきた。「大丈夫?」と声をかけたわたしにも反応できないほど苦しそうだった。食事の支度を待っているあいだに、くちびるが紫色になってきた姉を見かねて、両親が車をだして病院に連れていき、姉はそのまま酸素吸入器をつけられ、救急治療室に入院した。そして次の日の深夜、電話が来て、姉は流行りのウイルスに感染しており、重度の急性肺炎を発症して死んだことが告げられた。

 混乱して事態を飲み込めない両親とわたしを前にして、病院のスタッフは感染対策のため、彼女はそのまま火葬される旨を連絡した。どうしようもございませんと、丁寧であきらめたような声で病院スタッフはわたしたちを諭した。家族の誰もが状況を飲み込めないなか、淡々と家族全員に濃厚接触者であるがゆえの抗体検査がおこなわれ、実はわたしも同じウイルスに感染していたことが判明したけれど、わたしは軽症で、すでに抗体もできているので問題なしとのことだった。中一だったわたしにはそれがなんのことであるのかはよくわからず、ふたりで熱を出したのに一方は残され、もう一方の姉はわけわからぬまま消え去ってしまい、家に帰るともう家族は4人から3人になっていて、両親はボーっとしてるし、家が奇妙に広くなっているのを発見して、途方もない気持ちだけがわたしの内側に濁った水みたいに満ちていった。

 姉は両親や学校や、友だちに隠れて喫煙をしていた。

 たぶん、わたしだけが姉のそれを知っていた。たまの練習オフの日に、両親のいない時間のベランダに座り込んで、姉はどこから手に入れてきたのか煙草の箱をとりだすと、ライターで器用に火をつけてフゥーっと煙を吐いていた。わたしが「なにしてるの」というと、人差し指を鼻先にあてて「お願い、みんなには秘密ね」と言って笑った。「あとでアイスかお菓子、買ってあげるから」と言われると、わたしは姉のいうことを聞かない理由はなく、「いいよ」と言ってその場を立ち去った。今、思えば彼女なりのプレッシャーやストレスの吐き出しどころが、そこしかなかったのかなと思わないでもない。奇跡的なプレイヤーで、主将で、立ち上げた部活の運営者で、いろいろなしがらみがあっただろうし、きっと普通に恋とか友達関係の悩みみたいな、そういうのもあったと思う。10代の前半でそういうのを全部、背負い込んで、でもまわりに姉を十分に理解できる者はいただろうかと考えると、姉自身が満足できるほどそうだったとは思えない。

「岡本選手……都子みやこさん、この河川敷で、たまにひとりでいたんだよ」と外村くんがいった。「都子さんて、お姉ちゃんと知り合いだったの?」とわたしが聞くと「知り合いっていうか、そうだな。知り合いといえばそうだった」と彼は言い、姉のことを喋りだした。

「俺、兄貴がいてさ。実は都子さん……岡本のお姉さんの一個上なんだよ。兄貴、小学校のときまでは俺も仲良かったんだけど。中学いったら荒れちゃって。俺と違って、まあ、なんていうのかな。不良っつか。グレてて。岡本、入学式のとき、校庭にバイクきたの覚えてるか?」

「え? あの夜露死苦軍団?」

「うわ、夜露死苦軍団っていいネーミングだなぁ。そうそうあれ、あれを立ち上げちゃった人間ていうか、かっこつけて初代総長とか言ってたけど……それが俺の兄貴なの」

「うわぁ、えぇ……ぜんぜん想像つかない」

「だよな。小学校までそういう人間じゃなかった気がするんだけどなぁ」

 外村くんは足下にあった雑草をちぎっては意味もなく投げた。わたしも手持ちぶさたで、なんとなく彼のまねをした。ふたりで草をちぎりながら投げた。

「だから俺は兄貴の不良友達と仲よかったわけ。年は離れてて小学生だったけど、一応、総長の弟だから。バイクはそのとき教わった。自転車みたいなものだし、河川敷で走らせるぶんには楽しいし。たまたま、いとこもバイク屋だから今日みたいにスクーター借りたりできたし。楽しいだろ? 乗るとすっきりする」

「うん。楽しかったよ。言おうとすることはわかる」

「うん、ふつうに楽しいんだよ。だからまあ俺は別に不良になる気はさらさらなかったけど、バイクは好きなんだ。兄貴は中学に入って学年あがるごとに、家にも帰らなくなってきて、ぜんぜん会わなくなっちゃったけど、バイクはひとりでずっと、たまに乗ってたんだ。それでここ数年はずっと、この河川敷でのって遊んだり、サッカーの練習したりしてた。そしたらある日、都子さんに話しかけられた」

「お姉ちゃんに?」

 外村くんは草を投げるのを一瞬、止めて手の中でもそもそといじってから「よくは知らないんだけど、都子さん、兄貴と付き合ってたみたいなんだ」と少し笑いながら言った。「それで弟の俺に近づいて仲良くなるために話しかけたらしい」という彼の表情は、笑顔なのにどうしようもなく寂しそうだった。

「都子さんに話しかけられたとき、なんで女子サッカーの岡本選手が俺に話しかけてくるんだってビックリしたのを覚えてるよ。なんでここにいるんだって。外村くんの弟でしょって言われて、そうだって答えたら、サッカーやってるのって聞かれて。それでうんって答えたら、教えてあげるよって言われて。嬉しかったなぁ。神様でも憑いてるのかってくらい、めちゃくちゃ上手で。たまーにしか河川敷には来なかったけど、来ると毎回、相手してくれて。それでひととおりやると、土手に座って煙草を吸い出すんだ。兄貴と同じ銘柄のやつ。だからなんとなく関係は予想できた。なんで全国区の女子サッカー部と、不良の総長が付き合ってるのかは知らないけど、たぶん、惹かれあうものがあったんだろうな、そうなんだろうなってのはわかった。兄貴のこと、やたら聞いてきたしね。おまえの兄ちゃん、不良だけどカッコいいよねって言ってて、小学生ながら鼻高かった。話をするうちに煙草、俺にも分けてくれるようになって、いっしょにサッカーやって、煙草吸って、それでお礼にバイクの後ろに乗せてあげて、そのへんの街なかを流したりして……

 懐かしそうに語る外村くんの横顔をわたしは思わず見あげてしまった。胸を鷲掴みされたような苦しい感覚を覚えて、それがなんでなのかわからなくて、お姉ちゃんが外村くんのバイクに乗って彼の背中を抱き締めている姿とか、外村くんがサッカーするお姉ちゃんを見つめている姿だとかを想像する自分を止められなくて、わたしはもう話をやめてほしくて、ただただ彼の顔を見つめていた。

……まあ、そういうわけで煙草を吸ってるの、岡本のお姉さんがきっかけなんだ。ごめんな、なんかもったいぶっちゃって。こんなの最初からただ言えばよかったかもしれない」

「ううん」

 そういったあと、わたしにはつづける言葉がなかった。どうしようもなく心臓は不規則に鳴り続けていて、わたしの頭には姉の記憶と今日の外村くんとのできごとが、ごちゃ混ぜに立ち上がっていて、夏の夜の空気はどこまでも浮ついたまんまで、もういったいどうするのが正解なのか、いや、正解じゃなくてもいいから、最低限でいいから、彼の気持ちを少しでも楽にさせられる返事をしてあげたいけれど、わたしの想像力ではそれがなんなのか、まったくもって思いつかなかった。中3になろうが、外村くんと喋ろうが、やっぱりわたしはなにもできないバカだった。

 そうか、こういうときに人は煙草を取りだして一服するのだと気がついたとき、すでに外村くんは煙草に火をつけようとしているところだった。じゃっじゃというライターの音が右側の耳に張り付いて、そのときのわたしは心底、外村くんを羨ましいと思った。

 ***

 気がついたらわたしは泣いていた。

 わんわん泣いて、隣の大きな肩にすがりついていた。

 どうして、どうしてと訳もわからず子供みたいに何度も言った。

 長い指がわたしの眼鏡をそっと外してはりついた髪を丁寧にどかした。

 初めてのキスはバニラと煙草の匂いがした。

 熱く湿った頬に触れた。

 震える息が、わたし以外にもあった。

 たぶん彼も泣いていたのだ。

 ***

 申しわけ程度に線香花火をやって、わたしたちはそそくさと帰路についた。外村とむらくんのバイクで最初に出会った公園まで送ってもらい、そこから歩いて帰った。ずいぶん遅かったじゃないと母に言われたが、友だちの家で花火してお喋りしてきたと言い、お風呂に入って残っていた夕飯を食べたらとくに勘繰ることもせず安心したようだった。

 花火以降、外村くんとは会わなかった。あたりまえだけど夏休みになったらわたしは夏期講習がはじまって塾通いにへとへとだったし、向こうはおそらくサッカーの練習があって忙しかっただろうし、そもそもわたしたちは本来、夜に顔を合わせるような間柄じゃない。わたしはぜんぜん頭に入ってこない夏期講習の怒濤の復習講義のさなか、あの日の夜に起きたことを何度も何度も思い出した。そして一連の偶然と、彼の手や衣服に隠された腰や腕や肩や、土手で見た横顔や首元や、そういった体の細部と、夜の風に含まれていたものたちのひとつひとつと、フラッシュバックする煙の匂いとバニラアイスの匂いと、飛び出てきそうなほど打ちつけて胸を焼いたあの心臓の鼓動と、甘やかな呼吸につづく柔らかな数秒の感触と、そしてそのとき、わたしと彼がみていたものの正体とについて、ずっとずっとずっと考えつづけた。

 キスをしたあと外村くんは、つっかえつっかえしながら自分のお兄さんのことについて話した。もうわたしの姉の話はできないと思ったからだろう。

 外村くんのお兄さんは小学校までは明るくて快活でよく喋るスポーツ少年で、外村くんと同じようにサッカーをやっていた(というかお兄さんがやっていたから外村くんもサッカーをはじめたらしい)のだけれど、小学校5年生、6年生あたりから、急にふさぎこむことが増えてきて、いっしょにサッカーをやってくれることも減ってきて、元気がない理由を聞いても教えてくれないし、ちょっかいをだして無理に元気にさせようとすると急に怒りだして殴られたり、蹴られたりするようになったらしい。

 外村くんは両親にお兄さんのことを聞いたけれど「反抗期といって、そうなるものなんだよ」と説明だけされて、そんなものかと思っていたのだけれど、お兄さんが中学校へ入学したある日、学校から連絡があって両親が家にはやく帰ってきて、血だらけになったお兄さんを学校の先生らしき人が連れてきて、外村くんは部屋に入ってろといわれその通りにしていると、しばらく玄関先でお兄さんと外村くんのお父さんの怒号やお母さんの叫び声が響き渡り、どたどたと階段をかけあがる音が聞こえたかと思ったら、部屋の扉が開いて、そこには鼻血を出したお母さんが「タツヤ鍵しめて!」と飛び込んできて、外村くんは慌てて鍵を閉めたらしい。

 そのあいだにお父さんは鼻の骨や足の指の骨を折られたり、全身打撲だらけになったりして、全治3ヶ月くらいの大怪我を負っており、そこから外村くんの両親も外村くん自身もお兄さんのことが怖くて、逆らうことができなくなり、とうのお兄さんはそれ以来、家で暴れることはなかったらしいけれど、あきらかに自分の顔色をうかがってビクビクしている両親にかなり高額のお金と身の回りの世話を要求しつづけ、外村くんのことはほとんど無視しつづけて、たまに話しかける感じだった。

 お兄さんは外村くんのことを嫌ってはいなかったみたいで、だからそのうちお兄さんの不良仲間が56人で家にあがりこんで煙草を吸ったり、酒を飲んだりすることが増えたときも、お兄さんは「これ弟だから、仲良くしてやってくれ」と外村くんを紹介し、そのあと「こいつはまともな人生を歩ませるんだから、変なこと教えこんだらぶっ殺すからな」といってその場を静まらせ、以降、不良仲間から外村くんはけっこう丁重に扱われていたらしい。それでお兄さんを通じて不良の知り合いが増えたけれど、別にグレることもなくて、彼は河川敷のあそこで不良たちと遊んだり、ふつうにサッカーをやったり、夜に勉強したりしながら、でもお兄さんと仲良くしたいと思えば思うほど、別に好きでも嫌いでもない両親とは会話をすることはできず、でも中学校から親が異常者みたいに扱われとがめられつづけているのは知っていて、せめて自分がまともならそういうのも減るんじゃないかと思って文武両道・明朗快活を心がけながら、ずっとそんな風にして今までやってきたらしい。

 バイクに乗せてくれたときとか、アイスを買ってくれたときとか、花火をしていたときとか、キスをしてくれていたときに、外村くんがわたしの向こう側に姉を見ていたことは明らかだった。そうかそうだよね、だから岡本って知ってたんだねとわたしは思った。わたしを笑わせて、わたしに触れることで、彼はわたしから岡本都子みやこのそれを感じとっていたのだろう。その事実はわたしをかなり悲しくさせたけれど、それ以上に、わたしだってあのとき、外村くんの瞳の奥に映されていたのだっていう事実に気がつかされて、お互いさまだなと思った。

 そう、わたしも姉を見ていたのだ。小学生だった外村くんの前でサッカーを教えて無邪気に笑い、土手に腰掛けていっしょに煙草を吸って、好きだった人へ思いを馳せたり、まわりからの期待に折り合いをつけようとしていた、わたしの姉の姿を見ていた。彼のその態度や視線の先にあった記憶を通して、わたしは突然、消失してしまった姉を追いかけて再会しようとしていたのだった。今だってどうして彼女が目の前にいないのか、本当に、まったくもって、わたしには理解できていなかった。ずっとどうしていいのかわかってなくて、今もずっとそうなのだ。だからわたしは外村くんのことを好きになっていく自分と、突然、姉に再会することができて嬉しくて仕方がなかった自分とを、うまく分け隔ててやることができずに、あのとき意味もわからず号泣したのかもしれない。

 もうひとつ、あのときわたしが見ていたものがある。

 外村くんのお兄さんの心のなかにあったものだ。

 彼の記憶に映る岡本都子みやこ、つまりわたしの姉は彼の兄に恋をしていた。姉はおそらく(かなり確実に)外村くんの瞳の向こうにいる外村くんのお兄さんを見ていたはずだった。全国区の女子サッカー選手と不良の総長と、わからないけどなにか惹かれるものがあったんだろうと外村くんは言った。それが実際どういうものなのかは彼にも、もちろんわたしにだってもうわかることはない。でも姉と外村くんのお兄さんがふたりで恋焦がれ、互いのうちに見つめていたは、おそらく同じものだったのではないかと思う。あの日の夜の一連のできごとをとおして、は少しだけ、わたしの体にも含まれているんじゃないかって思えたからだ。

 はきっと背が高い草むらに囲まれた小さく暗い隠れ場所みたいなものだ。地面はドロドロとしていて黒くぬめっており、長雨に濡れた泥土は延々、放っておかれていて腐敗の臭いがただよっている。でも誰も来ない。誰もいない。ぬかるんだくさい地面に足を踏み入れて、ゆっくりとゆっくりと泥が包みこむ様をみていれば、しみ出てくる水それ自体は清らかで艶やかに土を照らしていることがわかるし、泥だって小さな小さな石たちが目には見えない宝飾として含まれ、汚泥を成り立たせていることがわかる。そういう場所に沈み込んだとき、人はいろいろなものを手放すと同時に、安心してみずからを別のなにかにゆだねることができるんじゃないだろうか。

 だから不思議なんだけれど、会ったこともない外村くんのお兄さんがなぜ急にふさぎこむようになったのか、中学で不良の総長になって反発していたのか、血だらけになるほどの暴力を両親にまでふるっていたのか、そういう理由の核心みたいなものが、わたしにはなんとなくわかる気がした。きっとお兄さんは選ぶことができなかったのだと思う。もうどうしようもなくて、叫んだり、殴ったりしながら、膨らみつづける自分をどこかに少しずつ分解して、ちょっとずつ捨て置いていかなければ、もともとの自分を圧縮してその草むらの泥のなかに沈めておかなければ、いっそ危ういところまできていたんじゃないかと思う。そしてその危うさはわたしの姉のなかにもあった。

 うまくは言えないけれど、わたしのなかにいくつかの想像が居ついた。種みたいなそれらは、植物が芽吹いて根を張りめぐらせるときみたいに、ゆっくりと、静かに動いてわたしのなかを満たしていった。

 ***

 夏休みがおわって秋、外村くんから学校の廊下とか玄関とかで「よぉ」と声をかけられ、それに応えていいものか悩んでしまい、なんとなくそっぽをむいてしまうのを3回ほどやったところ、4回目から向こうももう挨拶をしてくることはなくなった。これでいいのだと思った。

 夏期講習の補講はまったく効果を発揮せず、成績はぜんぜん上がることもなくて、わたしは自分が想定していたとおり、わたしくらいの成績の人の受け入れ先みたいになっている地元の高校への進学が有力になった。クラスの女子の噂で外村くんはやっぱり県内の有名進学高への指定校推薦の話がきて、それを受けることになったらしいことを聞いた。あとうちのクラスの美女が夏休みにまた告白して、どうやら付き合い出したらしいとも聞いた。はは、と思った。そうそう、それがいいよ。それが平常運転だよ。

 わたしは学校のトイレのなかでヘッドホンをかけて主観もりっもりで選んだお気に入り雑多プレイリストをかけて、首を縦に振って休み時間を過ごしたり、おそらく同じように夏期講習の効果はまったく得られず同じ高校へ進学するであろう友人とBLマンガの推しキャラの話をしたりして、つつがなくエアメガネとしての人生を謳歌した。秋はあっという間に通りすぎて、冬に受験で緊張して、初春で合格通知に友達と歓喜して、そして春がくる。

 3月。

 卒業式のために合唱曲を練習していると感慨深かった。明日、わたしは中学校を卒業する。エアメガネとして地味に、でも快適に過ごした3年間だった。うんうん、わたし、中学校生活、いろいろあったな。充実してたな。友達ともいっぱいしゃべったな。うんうん。いろいろあった。高校いけてよかった。よかったよ。うんうん。高校でなにしよ。

 ……

 ……

 ……ずっと同じかな。

 ずっと同じで、ずっとずっと同じなのかな。

 高校もまたエアメガネで、トイレでヘッドホンかけて音楽聴いて、同じ友達とずっとマンガとかアイドルの話して、勉強めんどうくさくて、成績も悪くて、親におまえ将来なにすんのって言われつづけて、塾の先生とかにやんわりバカって言われて、友達の楽しそうなのただ見てて、そういう立ち位置で、進路がまたせまってきて人生決めるときなのに、えいやって適当に決めて、選んでも落ちて決まらなくて、ずっとなにもできないし、地味に生きてきたし、頭悪いし、まあしょうがないでしょって感じで、そんでなんか別にやりたくもないことやって、やりたくないこと仕事にして、ずっとそういうのやって生きて、お姉ちゃんが生きてたらよかったのに、わたしが代わりに死んでたらよかったのにとか思って、ずっとひとりで、ずっとずっとずっとひとりで生きていくのかな。

 気がつくと『心の瞳』を歌いながら泣いていた。

 先生とかまわりの男子がわたしが泣いているのを見つけて「おいおい気がはやいな」と笑った。わたしの友達とクラスの女子の数人は、込み上げるものがあったらしく、もらい泣きをしはじめた。「そうだよね、悲しいよね」とかいって「卒業してもずっと友達でいようね」とかなんとかいって、えんえん泣いていた。

 って思った。

 わたしはそうじゃないんだ、それどころじゃないんだよと思って、泣いてひとりで保健室にいくふりをしてそのまま職員室へ行き、すみません今日は両親と親戚が集まる用事があって早退するんでしたと先生に伝えると、走って学校を飛び出した――

 ――すぐにゼエゼエと息があがって、それはあのウイルス風邪以来、ずっとつづいているやつで、それはまあ仕方ないとして、お姉ちゃんだったらきっと家まで5キロ20分くらいで走りきっちゃうんだろうなと思って、ヒィッヒィッと息をしていた姉の姿を思い出しては涙がにじんできて、その記憶を振り切ってとにかく走って走って走った。途中、ツラすぎて休憩して、そのあいだにお母さんに携帯で「今日、コンタクトレンズ買いたい」ってメッセして、息がととのうまでには母から「なんでよ、そんな急に。春休みに買ってあげるから、明日は眼鏡でいいじゃない」って返事がきて、すぐに電話をかけて、そうじゃないんだ一生のお願いだからコンタクトにしてくれわたし本当はメガネなんて嫌なんだお姉ちゃんみたいになりたかったんだもちろんなれないことはわかってたし実際なれないだろうしお姉ちゃんにもサッカーやりたいっていったとき「やってもいいけど、わたしみたいになるな」って言われてなんでっていったら彼女はただ笑ってて意味わかんなかったからきっと運動音痴はやるなって意味なんだろうと思って不貞腐ふてくされてたけどそれはぜんぜん違って見当違いもはなはだしくてわたしって本当にバカだからお姉ちゃんのいや姉のいや都子みやこさんのあのとき抱えてたものをなんにもわかってなくてただ自分に自信がないことから逃げてただけでそのせいでお姉ちゃんの煙草たばこ止められなくてそのせいでお姉ちゃんは肺炎になって死んじゃってわたしは目が悪くなったからってお母さんから言われるままにメガネなんか買ってもらっちゃってでも本当は嫌だったんだメガネするの運動音痴うんどうおんちでバカでなんにもセンスないのはわかってるんだけど似合わなくてもダサくても分不相応ぶんふそうおうでもなんでもいいから好きな服選んで好きなことに挑戦して好きな思いをもってそういう風に生きたかったんだ好きな人できたら周りの目とかキャラとかスクールカーストとかなんだよそんなの知らねーよバカじゃねーのって感じで無視してほんとそのまんまそのまんま好きだって伝えたくてそのときに嘘偽うそいつわりなんてこれっぽっちもない本当の姿で本当のわたしの姿で相手に好きだって伝えてフラれたって別にいいからそのまんまわたしのこと伝えないとわたしじゃないわたしが好きって伝えちゃってじゃあわたし自身はいったいどこにいっちゃうのって一生いや死んで生まれ変わったあとも後悔するんじゃないかって初恋なんだわたし初めて恋愛してるんだ夏期講習の説明会の帰りが遅かった夜あのとき出会った子なんだ夜に会って初めて好きになったんだたぶんもうあのときからずっとずっと好きなんだメガネじゃダメなんだエアメガネはわたしじゃないんだバカみたいだしバカなのはじゅうぶんわかってるんだお願いコンタクトにさせてくれ2文字伝えるだけなんだすぐ終わるからそしたらまたメガネでいいから一生メガネでいいから今からコンタクトにするんだそんで好きって言うんだメガネじゃダメなんだ卒業式は朝から晩まで忙しくてごたごたしてて彼はサッカー部でわたしと違ってきっと人気者でアチコチから声かかってもう彼女もいるらしいしそれに右往左往してたら下手したら会えもしないからダメなんだ絶対伝えたいんだワンデーコンタクトでいいからお願いします買ってくださいお願いしますって言ったら、お母さんは電話の向こうでひとしきり黙ったあと少し笑ってわたしのことをバカにして、ちょっと声を詰まらせながら「ワンデーより2ウィークのほうが安く済むのよ」といった。

 ***

 眼球にコンタクトレンズを押し込むのはめちゃくちゃ怖かった。

 お母さんが髪をきれいにセットしてくれた。

 薄くメイクもしてくれた。

 ――メイクは校則違反なんだけど「娘の晴れ舞台に校則なんて。そんなのどうでもいいでしょう?」と言ってくれた。

 メガネは机のなかにしまった。

 ヘッドホンは少し迷って持っていくことにした。

 わたしは制服のジャケットを羽織った。

 お気に入りのプレイリストをシャッフルで流した。

 テイラー・スウィフトが「We are never ever ever getting back together ……」と歌った。

 Never ever ever ……

 

 校門の前では金髪リーゼントではかまを羽織ったり、カラフルな学ラン特攻服を文字だらけにしたり、馬鹿みたいに厚化粧したりした同級生たちが、生活指導の教員に止められやんや言っていた。わたしは息を吸って止めて、それを無視して校門を通り過ぎた。予想どおりなにも言われなかった。不良の彼らの横を通りすぎるとき、彼らのことを思ったより自分が嫌いではなく、むしろ今はちょっと尊敬していることに気がついて不思議な気分になった。入学したときに「トッポい」と言ってた男の子は「天上天下唯我独尊&愛羅舞友」と背中に刺繍された真っ赤な長ランを着て、友達と記念写真を撮っていた。

 教室にいくとクラスの男子数人が「えぇ岡本どしたん? 高校デビューは早くね?」と言ったので「デビューじゃない。卒業なんだ。を今日で卒業する」と返すと黙り込んだ。友達がわたしのコンタクト姿をみて「すごくいい」と言ってくれた。ありがとうと笑顔をかえした。それ以降は誰も話しかけてこなかった。視線だけがたまに集まってわたしはそれを無視した。

 シンとする体育館で外村くんが卒業証書を受けとった。間があいて、わたしの番がきて、すこし怪訝な顔をする校長に微笑みを返して卒業証書を受けとった。自分の椅子にもどって、あの日の夜をもう一度、思い出した。バイクの振動が、心臓の動きが、今もリアルにわたしを震わせた。『心の瞳』を歌った。心の瞳で君を見つめれば、愛すること、それがどんなことだかわかりかけてきた……

 仰げば尊しで卒業式は終わった。

 教室を出て校門へ向かう道中、わたしの前でクラス一番の美人が、卒業証書の筒を大事そうに抱きしめてキョロキョロとあたりを見まわしていた。そして誰かの背中を見つけると「タッちゃん」といって笑顔で小走りしだした。タッちゃんと呼ばれた男子は振り返り、美人が飛び込んでくるのをうれしそうに抱きとめた。そして美人に第二ボタンとかの話をされて、まんざらでもなさそうな顔をしたあと、美人と手をつないで歩きだした。その人は入学式のときにわたしのとなりで「トッポい」と言っていた古川龍臣ふるかわ たつおみくんだった。真っ赤な長ランは脱がされていたが、下に着ていたTシャツも真っ赤だった。なんだ。そうだったのか。

「タツ違いじゃん……」とわたしは思わず声がもれて、友達に「どうしたの」と言われたけれど、もう返事を返している余裕もなかった。今夜はみんなでカラオケやるらしいよという友達に、ごめん現地集合しようと伝えると、わたしは外村くんを探しに走り出した。

 どこにいるの? どこ? まさかもう帰ってないよね? 部活の人たちが離してくれない? もう親とか親戚が来ちゃった? 顧問先生のところ? どこにいるの? お願い、少しだから、少しでいいから、わたしと話をさせて。ひとことだから。ほんの少しでいいから。

 息を切らせて学校中をまわったけれど、彼の姿は見えなかった。サッカー部の人をつかまえて外村くんの居場所を聞くと、部で集まるのは夕方からで、今はたぶん一回、家に帰ったんじゃないかと言われた。わたしは慌てて外村くんの家へと向かった。家へ向かう途中に外村くんはいた。あの公園の近くの道だった。はぁはぁと息を切らせて近づいてくる人間がいるのに気が付き、ポケットに手をいれた彼はわたしへ振り向いた。

「岡本……? なに? どうした」

「岡本ってのやめて」

「え?」

「岡本ってやめて」

……

岡本美和子おかもと みわこなの。わたしの名前は」

「おぉ、うん」

「美和子でいい。みわこって呼んでよ。みやこじゃなくて」

……

……

 すこし間があいて彼は「メガネもいいけど、今のそれも似合ってるよ」といい、「みわこ」とわたしの名前を呼んだ。わたしは犬みたいにうれしくなって、その一瞬をどれだけの長い時間、待ち望んでいたのだろうと思って、同時にわたしのなかで膨らんでいたものが、虹色の光とともに盛大に弾け飛んだように思った。そしてわたしはとても幸福な気分になって、笑顔で彼に「好き」と言った。

 We are never ever ever getting back together.

 えっ、と言って彼はしばらく黙り、返事を用意しているようだった。だけどわたしにはもう次の言葉の用意があった。

……だったけど、もう違うんだ」

「へ?」

「好きだし、好きだったけど、今はもう違うんだ。ははは」

「なにそれ?」

 そういう外村くんにわたしは中指を立てて「Fu◯k」と言って笑った。目を丸くした彼は、そのあと笑いだして「なんだよそれ。俺、告られて、フラれたってこと?」と言った。「そうだよバーカ」とわたしは笑って「お姉ちゃんばっか見てんじゃねーよ」と言った。彼の眉毛が下がって、目の端からみるみる温かな光が漏れて「そうだよなぁ。岡本に、みわこに失礼だよなぁ。ごめんな。こんなに素敵な女の子、目の前にして」といって、彼は涙をぬぐった。

「友達になろう」とわたしは言った。一から始まる友達に。夜も煙草も、バイクも、キスも、何もない。この先、どういう風になるかもわからない、仲良くなるかもしれないし、疎遠になるかもしれないし、高校も別々で、連絡を取り合うかもわからない。でも何かを共有している友達になろうとわたしは言った。外村くんは意味をわかりかねたような顔をしながらも、「おう。いいよ。なろう、友達に」と言って、「じゃあ俺のこと、タツヤって呼んでくれよ」とつづけ、わたしは「OK、タツヤ」と言った。

 桜はまだつぼみで卒業式には開花が間に合わなかった。でももうすぐ薄桃色の花が満開に咲くだろう。その美しさをすでにわたしは知っている。だってもうすぐわたしは高校生になり、人生だって16年目になるのだ。

「友達になった手始めに……」とわたしはドキドキしながら言い、「なに?」と答える彼に向けてヘタクソだけど今度サッカーを教えてほしいと伝えると、今度こそ自分が本当の自分になるための広いフィールドへ立って、その初めの一歩を踏み出せたような気がした。

(了)