トレース|5,852文字

トレース遙夏しま2021・05

 いつぞやみた夢が妙に気になる。景色がやけに現実味を帯びていて、夢の中で起こる出来事や自分の思考に、意味があるような、ないような、つっかえる感覚がある……。夢にしてはストーリーもなんとなく形になっていて、そこにメッセージのようなものを感じる(実際、どういうメッセージなのかと言われると、うまく言葉で説明はできないのだが)。

 夢は脳が記憶や気持ちを整理するときに起こる現象だという。なにか小説に役立てられるかもしれないので、記録として書いておくことにする。

 以降、夢の内容。

 ***

 駅のホーム。私は電車を待っている。列の先頭にいる。目の前の線路では黄色いラインの入った電車(おそらく中央・総武線)が行き来している。列の先頭で待っているあいだ、私は暇をつぶそうとキオスクに並べられている雑誌を手にとる(列の先頭にいたらふつうキオスクの雑誌には手が届かない。しかしここは夢なので物理的な距離感は適当になっているようだ)。雑誌はなにかイラストが描かれており、(それは今、思い起こすと月刊アニメージュのような雑誌だった)気がつくと私はトレーシングペーパーをつかって、イラストのトレース作業をしていた。

 夢のなかの私はそのときのつもりでイラストをトレースしていた。なんの練習なのかはわからない。イラストをトレースするくらいだから、恐らく絵の上達なのかもしれないが、夢のなかで私はとくに絵が巧くなろうとは思っておらず、ただだと思っていた。

 私はなにかのアニメか漫画か、キャラクターを熱心にトレースしている。鉛筆とシャーペンとをつかって線をなぞっている。思い返したかぎりそれは「提督ていとく」のような姿をした男性キャラクターだった。戦艦だとか宇宙船だとか基地だとか、そういうところで戦況を見ながら悠々とかまえているタイプのキャラクターだ。パイプをくわえ、サングラスをかけ、帽子をかぶっていた。このキャラクターがなんのアニメ・漫画なのかはわからない。なぜそれを選んだのかもわからない。(私は宇宙戦艦ヤマトだとかガンダムだとか、そういうのを観たことがない。そもそも戦いのある物語にあまり興味がむかない。)絵をトレースすることで、なんの技術を磨こうとしているのかもわからない。

 ともかく私はトレースをしてをしていた。その作業はそこまでおもしろくもないのだが、かといって投げ出したいほどつまらないものでもない。作業をつづけることで何かしら得るものを私にもたらしている感覚があった。微細な充足感とでもいおうか。どこへも出かけることのできない雨の日に、溜まった事務作業を片付けているときのような、集中したくなるだけの最低限の関心と意義をもつ、トレース作業だった。

 しばらく作業に没頭するあまり、私は自分が駅で電車を待っており、しかもキオスクの売りものの雑誌を手にした状態であったことを忘れてしまう。そのせいでうっかり、いくつかのページをハサミで切り抜いてしまうし、トレースしたページにはなぞったあとをいくつもつけてしまう。傷のついた雑誌を見返しながら、さすがにそのまま棚へ戻すことはできないだろうと思い、私はその雑誌を買い取ることを決める。電車を待つ列の先頭から抜けて、キオスクのレジへ行くことにする。「あーあ、これじゃあ<span class="al upright">9</span>」と私は考える。その瞬間、私は自分が今、高校へ通学している最中であることを認識する。

 駅のキオスクの会計場所はコンビニと本屋のレジの合いの子のような造りになっており、そこにはオタクじみた男性店員(緑色のエプロンをつけている)がふたり立っている。ひとりはメガネをかけていて、肩幅が広く、すこし太っていて背が低い。もうひとりは眉毛が太くつながりそうで、少し伸びたスポーツ刈りをしており、出っ歯。茶色いパーカーを着ている。私は雑誌をカウンターにだし、メガネのほうに雑誌をトレースしていたら痕がついてしまったり、切り取ってしまったりした旨を伝え、雑誌の表紙に書かれている値段「780円」を指さしながら買い取りを申し出る。

 するとメガネが「あぁ」といって笑いだす。

 なんのことかと思うと、メガネが勢いよく喋りだす。「この雑誌を買う人は、みんな通る道なんですけどねぇ。もちろんぼくも買うから、あなたと同じことをしましたがね」といって、雑誌を裏返す。雑誌の裏側には「定価1680円」と書かれている。「これが値段なんですよ。表のやつはデザインで」とメガネがしたり顔でいう。メガネの背後で、茶色パーカーがきししと笑う。おそらく彼も同じ道を辿ったひとりなのだろう。

 メガネは値段のことを言ったあと、私の目を見ながら、ニヤけて雑誌について何やら長々しい説明をしだす(しかしなんの説明であるかは私にはわからない。雑誌のコンテンツについて語っているであろうことはわかる。自分がおすすめしたい楽しいことについて延々、話していて、それで私は「あぁ彼らはオタクなんだな」と思う)。

 値段が想定とちがったうえ、2倍近くになってしまった私はつまらない気分になりながらも、しかし彼らに満面の笑顔を返して「あらぁそうなんですか」とか「これはやってしまいましたね」とか、調子よく返事をする。そして支払いを渋るでもなく(さらにいえば、表紙が780円なのに裏表紙が1680円である理由を問い詰めるでもなく)、素直に財布から2千円を出す。夢ではない実際の私ならこの状況で出し渋りをしないわけがないのだが、ここでは不思議なほどオタク店員たちになびいていた。まるで同族に加わらんがごとく。

 支払いを終えた私は店を出る。ホームでは当然、乗るはずだった電車が発車している。「9時には間に合わないな」と私はもう一度思い、そして「もう面倒だから、なにか理由をつけて今日は休みにしようかな」と考える。というのも私は遠方の高校に通っていたので、通学には2時間半から3時間も時間がかかる。家は田舎で最寄り駅の電車は1時間に1本しか来ないうえ、そのあとの乗り換えも複雑なので、下手をすれば学校へ着くのが昼近くになってしまうのだ。(私は高校が遠方だったが、実際は上で書いたほど通学に時間はかからない。おそらく夢のなかで高校までの遠さが過剰に認識されていると思われる。)

 私が通っている高校はバリバリの体育会系であり、体育会系高校にありがちな時間厳守のルールと、暴力的なまでに厳しい罰をおこなう教員たちとが存在していて「雑誌を買っていたら電車を逃した」なんて言い訳にもならず、確実な懲罰対象となる。

 私はそれを思い出す。「なんでこんな大事なことを忘れて、列から出てしまったんだろう」と、電車を待つ列から抜けてしまったことを後悔する。と思う。

 幸い、私はその厳しい高校において、態度も真面目で、成績も良い、いわゆる模範的な生徒として教員に認識されていた。高校を休むこともほとんどなかった。だから適当な理由をあげて休むくらいなら造作もないことだった。私は携帯電話(ガラケーだった!)でメールを打ち、担任へ体調不良で休む旨を伝えた。厳罰的な高校において「体調不良」という曖昧な言い回しが許されるのか、多少、疑問はあったが雑誌を買い取った一件で、いろいろなものが面倒になっていた。私はかなり真面目にやっているし、もし曖昧な言葉に疑問をもたれたとしても(つまりズル休みであることがバレても)、たぶん担任は黙認して休ませてくれるだろうという見通しがあった。

 それは確実なものだった。だって何しろ私は規律に対して従順に、模範的にやってきた人間なのだ。実は体育会系の高校はその運動能力の高さゆえにどうしても野生的な生徒で溢れてしまい、真面目で規律をきちんと守れる模範的な生徒は非常に少ない(逆にいえばだから厳罰的なのだ)。だから私は校内でいえば珍しい生徒にあたり、ある場合には重宝され、そしてある場合には教員たちは私をどう扱っていいのか、ふつうの生徒よりもわずかに計りかねているところがあった。

 またその模範さとは別に、そこではのだからという理由もあった。

 私は当時、バスケ部に在籍していたのだが、いわゆる強豪校で全国から中学有名選手を集めてくるような部だった。一方の私は地区大会で一回戦負けするような中学出身の平凡な選手だった。3年間ユニフォームを着ることもなく、ただ入部して、ただ引退した。3年間は雑用と練習と筋トレと後輩の引率と、それで終わった。顧問からは「頑張っているし別に問題もないけれど、なぜわざわざうちにきたのか」と言われていた。だから私がいなくても当然、学校も部活も成り立つのだ。休もうが休むまいが影響はない。(実際、私じゃなくても、誰がいようがいまいが、ひとり抜けたくらいなら学校も部活も組織は成り立つものなのだが。)ともかくそのときの私はそう考えた。

 メールを送信し終えると、自分が担任へそういったメッセージ(そういったメッセージとは、休むために嘘を含めた伝達をおこなうだとか、体調不良など自分の弱さを伝えるだとか、相手へ真意を汲み取ってもらおうと期待するだとか、そういった意味合いを指す気持ちだった)を送るのが、初めてのことであると気がつく。私はあらためて今、自分が高校3年生なのだと思い出す。

 ふと体が軽くなったような気持ちになる。「なんだ、こんなものだったのだ」と考える。そして3年ものあいだ、いったいなぜ、私はこんなにもをしていたのだろうと考える。すると急にヘナヘナと力が抜けて、ホームにへたりこんでしまう。もしかして自分は取り返しのつかない失敗をしていたのではないかと考え、いろいろなものを失ってしまったような感覚におちいる。

 そのあいだも黄色い電車はどこかへ向かって、せわしなく通過をしつづけている。私はこのあとどこへ行っていいものかわからず、目の前の電車をただただやり過ごしている。

 ***

 以上が夢である。

 途中にいくつか註釈や意訳をいれた。それは夢のなかと、実際の目覚めているときと、私の状況や気持ちに差がありそうだったので、説明する意図で書いておいた。どちらにせよ自分のためのメモである。

 夢を見たからといって何か生活が変わっただとか、心身が格段に変化しただとか、そういうものはない。夢はあくまで夢で、印象が強いので思い返すとリアリティを感じるけれど、実生活へなにか影響を及ぼすのかといえば、そういったことは別段なにもない。

 夢の解釈のしようはいくらでもあるだろう。またそこに個人的な記憶をもちこめば、夢にいくらかの意味を見出せるのかもしれない。しかし冒頭でも書いたとおりそこにあるメッセージみたいなものを無理に言葉にすれば、取りこぼしが起きてしまうような気がする。解釈として言葉にされたものは、夢それ自体がもつ意味を(さらにいえば、夢のその核心にあるとした質感を)正確にはすくいとれないだろう。だからこれはこのまんま解釈せず、ストーリーとして書き記しておこうと思う。

 余談ではあるけれど、この夢の話を書いた前の日、突然、家の窓ガラスに鳥がぶつかった。茶色くて、雀のような模様で、小鳥くらいの大きさのシギのような鳥で、調べても種類はわからなかった。

 ドンという音がして、デッキを見ると鳥が転がっていた。私が両手でやさしく鳥を拾いあげると、くたりと首が落ちた。まだあたたかな鳥はどうやら即死していた。もしかしたら気絶かもしれないと、しばらく手のなかで様子をみたが、口から液体を出すばかりで呼吸も拍動もなく、結局、鳥が目を覚ますことはなかった。窓ガラスに空が映っていて見えなかったのだろうなと私は考え、庭の端に鳥を置いた。おそらく夜のあいだに猫だとか、梟だとかが食べにきて、明日にはなくなるだろう。(実際、今日になって庭をみてみたが、鳥はいなくなっていた。)

 鳥が窓にぶつかって死ぬことなど、この家に住んでから起こったことがなかった。種類だって近所で見るような鳥ではなかった(なにしろ調べてもわからないのだ)。そのせいか、ふと夢と鴫のようなその鳥の死が、繋がっているように思えた。彼(もしくは彼女)が、私の夢に存在するなにかを受けもってくれたのではないかと感じたのだ。

 鳥を見ながら私は「電車に乗らなくてよかったのかもしれない」と思い始めていた。おそらくその列車は夢のにつづいていた。夢の果てにおいてなにが起こるのか私にはわからないが、しかし夢のまわりでは膨大たるエネルギーが、おそらく私と私のいる世界をなんらかの方向へ変化させつづけている。まるで行き先のわからない大河のように。

 その大河は熱い。マグマのような熱を持っている。流れも速く、濁っている。そして大河に囲われる私の夢は(物理的な位置関係をいえばだけれど)私の内部に存在している。心に内在するむきだしの熱源にひとは気安く触れることはできないけれど、しかし一方では、その大きな河をひとはいつか目にして、渡っていかなければいけないのだとも、私は思っている。

 もし私が夢で電車に乗っていたら。つまり雑誌を手に取ることも、そこでトレース作業をすることも、買い取りの一件が起こることも、休みのメールを打つことも、そのメールに関してひととおりの思案をおこなうことも、そこでヘナヘナとへたり込むことも、そしてこの夢に辿りつくまでの実際の人生を選択することもなかったとしたら。もしかすると私は夢の果てへ行き、巨大な大河にぶつかり、場合によってはそのマグマへのまれていたかもしれない。それは直接的か間接的は問わず、私へなんらかの「死」をもたらすのではないかと思うのだ。

 鴫は(理由はわからないが)私が大河にのまれ死ぬのを避けるかわりに、代理として窓ガラスへ衝突し、死亡したように思えてならなかった。私が夢で電車に乗っていたら、窓は開いていて鴫も飛び込んでくることはなかったかもしれない。いや夢で電車に乗るに至るならば、私は実際の現実でのだ。そうなれば今の家はないだろうし、鴫が窓にぶつかって死ぬこともない。

 もちろん夢と鴫との関係はただの気のせいだといえば、そのとおりである。だからあまり深くは追求しない。関係しようがしまいがそんなものはわかるわけないし、結局、どんなことであれ本当のことはよくわからないまま、世界はどうせ今も、なにかに沿ってただ流れつづけているのだから。

(了)