怒らないごっこ|10,322文字

怒らないごっこ遙夏しま2021・02

 小学六年生のとき、わたしのクラスで「怒らないごっこ」という遊びが流行った。なにがあっても怒らず、余裕しゃくしゃくな態度でいるってだけのシンプルな遊びで、それをやろうと言いだしてから、わたしたちのクラスは約半年にわたって誰もがまったく怒らなかった。遊びのもとをたどれば休み時間、わたしのいる女子グループの隣でしゃべっていた男子のひとりが、親や先生たち同士は自分らとくらべてまったく怒らないので、「大人=怒らない」なんだと言いだしたのがはじまりで、なんだかんだ大人になりたかったわたしたちは、怒らないことについての話をすればするほど、そんな大人な態度に便乗したくなってきた。「じゃあこれから怒らないごっこしようよ」と言った友達は、その場でとてももてはやされた。

 せーのでみんな怒らないごっこをはじめた。といってもはじめた直後に怒るひとなどいなかったから、わたしたちは全員の顔を見回してヘラヘラしていた。怒れない状況に妙にソワソワしたのもあるし、おそらくその場にいた全員、自分がすこし大人に近づいたのだと錯覚してうれしくなっていたのだろう。午前中の休み時間に怒らないごっこは始まり、たしか昼休みまでにはクラス中へ「今日から怒ってはいけない」というルールが伝わっていた。

 みんな、怒らないごっこがはじまってしばらくはヘラヘラしてしたが、当日のうちに自然とそのことを忘れた。わたしたちはふつうに遊びだした。誰かが校庭でドッジボールをしようといって外へ駆けだした。ドッジボールをやりたいみんながそれについていった。体育倉庫からボールをとりだし、いつものようにドッジボールをはじめた。

 例によってクラスの男子で一番からだの大きいやつが、運動神経のよくない女子へ遠慮なくボールを投げつけた。わたしはその子の一番近くにいたのでフォローするつもりで「こら卑怯!」と叫んだ。しかしその瞬間、みんなに「怒らないごっこ!」と言われハッとした。そうだ、怒らないごっこ。だから態度をあらためてニコリとして「気をつけてねぇ」と言った。男子は大笑いしていたし、ボールをぶつけられた子は複雑な表情をしていた。しかしルールだ。仕方ない。

 くやしいのでもっとも笑っていた男子の顔面へむけて、隙をついて全力でボールを投げた。あまり運動神経のよくないそいつは、ボールが飛んできたことに反応すらできなかった。顔にボールが直撃し、「ぐぅ」と小さな声をだして、その場にうずくまった。わたしは笑顔で「ごめんねぇ」と言った、鼻血がでていた。しかしそいつは鼻血面で涙目のまま笑いながら「ぜんぜんへいきですぅー」と言った。男子も女子もその場にいた全員が笑った。

 それがこの遊びの成功体験となった。怒らないごっこはおもしろい。全員がそう認識して、わたしたちの間に怒らないごっこは定着した。

 ***

 それからというもの怒らないごっこは「怒らせる者」と「それを耐える者」とが入れ替わり立ち替わりしながら、いじめみたいな行為を全員でスルーし、妙な緊張感を楽しむチキンレースみたいになっていった。

 たとえばある男子が女子のことをいきなり叩いたりする。けれど女子は穏やかに笑顔で許す。叩いた男子にいきなりバケツで水をかける。びしょ濡れになった男子はもちろんそれを許す。気の弱そうな子の体操服や上靴を女子グループが隠したりする。けれどその子は気にしてない顔で陽気に隠されたものを探す。ある日、いきなり全員から丸一日、無視されて、次の日みんなから謝られる。もちろん笑顔で許す……

 わたしたちのクラスは仲がいいのか馬鹿なのか、怒らないごっこの犠牲者が平等になるように、ターゲットを律儀に順繰りとさせながら、見事な連携でいろいろなイタズラを実行した。黒板消しで顔を叩いたり、机の上に絵具で落書きをしたり、嫌いな給食を大盛りにしたり、異性のトイレに押し込めたり、全員の消しゴムのカスをひとりのランドセルにいれたり、その子の好きな相手のロッカーに体育着をつっこんでおいたり、「嫌い」と書いた手紙を全員でひとりにあてて渡したり、傘で顔をつついたり、カッターナイフをつきつけて恐喝のふりをしてみたり。やることはだんだんエスカレートしていったが、どれもその場だけのことで、やられた側が平気そうな顔で許せばみんなが大笑いし、それで終わった。

 次の人にターゲットが移ると、やられた人は全員、「やれやれおつかれさまでした」みたいにふるまった。それがクールというか、大人っぽさを感じさせた。普段では味わえない種類の優越感だった。怒らないごっこはわたしたちの気分を盛りあげ、流行りつづけた。

 ***

「怒らせる側」を率先してやるのはイタズラが好きなやつだったけれど、怒らせる方法は過激じゃなくても別になんだっていいので(ほっぺたを指でぶにゅっとさすだけでもいい)、クラスの八割くらいは怒らせる係を好んでやっていたように思う。女子は気になる男子にちょっかいを出せるいい機会となるので、けっこうノリが良かったように記憶している。言い出しっぺこそいるものの主犯格も主要ターゲットもいない、そして何をされても必ず許さなくていけない、そんな不思議なイジメ、イタズラがずっとつづいた。

 でも当然、やられる側はおもしろくない。やられればやってきた相手へ恨みがつのる。ルールだから表面上、許しているだけなのだ。だから自分に何かしてきた相手がターゲットになったときは仕返しのチャンスとばかりに、つい残酷なことをやりがちになる。最初は軽く頭を叩いていたのが、本気で叩くようになり、それでは気が済まず、ほうきで叩いたり、教科書の背で叩いたり、バットで叩いたりするようになる。やられたらやりかえしたい子供のわたしたちが交互にイタズラをしあえば、相対的に怒らせる側の行為はどんどん過激に残酷になっていく。

 そうなってくると青アザができたり、出血するようなことだって平然と起こるようになり、さすがにそういうときは周囲の全員が騒然となる。こないだ辞書の角でいきなり後頭部を叩かれた男子は「ぜんぜんいいよ」と言ったあと頭から血を流し保健室へいった。彼を辞書で叩いた男子はこの前、木製バットで耳を叩かれていた。まだそのときの腫れたアザが痛々しく耳に残っていた。

 暴力が暴力を呼ぶ生々しいこの状況を、みんな不安になりながら当事者として見守っていた。しかしそれでも自分が怒らない大人であると思うと、なんとなく他人ごとのような気になってきて、なぜか冷静になったつもりで「まあそのうちどうにかなるだろう」と思っていた。おそらく全員が全員、似たような感覚をいだいていたように思う。

 こんな状態ではあったけれど怒らないごっこを止めようとする者はいなかった。すでに全員、予感めいたなにかが芽生えていたのだと思う。怒らないごっこをやっている者たちだけがわかる、はちきれんばかりの緊張した空気感がその場にはあった。

 もう全員が二回ないし、三回、クラスメイトからの仕打ちを受けていた。だから自分に何かやってきた相手へをたくらんでいる人間が多いことは目に見えていた。やめようなんて言いだせば仕返しをしたい友達が怒りだし、とばっちりを受けるに決まっている。

 そういうわたしだって先日、いきなり髪の毛を10センチくらいハサミで切ってきたトムラヨウタという男子に仕返しをしてやるつもりでいた。女子の髪の毛を切るなんて常識外れでたいがいふざけている。母に心配されないよう、わたしがどれだけ言い訳したかわかっているのか。母はその日、わたしの髪型をみて泣いた。毛先のほうを切られたとはいえ、わたしは肩までのショートだから10センチも髪がなくなれば誤魔化しようがないのだ。「いじめられているの?」と聞いてくる母に友達とふざけていて自分で切ってしまったのだと言い、ごめんなさいと謝ると、母は納得してなさそうに「もし何か悩みとかあるなら、ほんとうになんでもいいから教えてね」と赤い目のまま言った。母がかわいそうだった。

 ヨウタは絶対に許せない。もし今、誰か「もう怒らないごっこはやめよう」なんて言いようものなら、そいつに自分の髪の責任をとれと言い詰めるくらいのつもりはあった。

 ***

 怒らないごっこが三ヶ月、四ヶ月とつづくとなんとなく持ち回りの日がわかるようになってきて、「あ、今日はいじめられる日だ」とわかるようになってくる。小学生同士のこと、そこまで複雑なことは考えられないので、だいたいクラスの出席順にターゲットが変わるようになっていたからだった。休んでも順番が前後するだけなので、やられるのが嫌でうまく立ち回れる友達は、日頃からなんとなくみんなへの仕打ちを軽くして、自分がやられるときもなあなあになるように仕向けていた。

 一方でバットで耳を叩かれたようなタイプの友達は、もう歯止めがきかないくらい苛立ちをつのらせていて、はっきりいって一触即発な状態だった。だから自分の仕返しの相手がターゲットとなる日は、もうめちゃくちゃだった。耳をやられたその子は辞書で相手を殴り返したあと、別の相手から今度は体操用のマットにとじこめられ、体育倉庫に数時間、放置された。泣きながら「ぜんぜんいいよ」と言っていたが、いざ仕返しの日となったら用務員さんが使う倉庫からスコップをもちだし相手を追い回した。ほとんど殺してやるといった具合で追いかけていた。

 追いかけられていたのは、こないだわたしの髪を切ったヨウタで、わたしはそれを見ながら「ざまあみろ」と心のなかで笑った。さすがにスコップで相手を殴ったら危険すぎるので、クラスのみんなが止めにはいった。でもその前にヨウタは転び、瞬間、倒れたヨウタの頭をめがけて友達がスコップを振りおろした。

 運良くスコップは命中を外れ、顔のすぐ横の地面にズバリとささった。

 ヨウタは泣いていた。「ごめんよぅごめんてよぅ」といっておいおい泣いていた。スコップを持っていた友達は無言でその場を立ち去った。それでその場は終わった。誰も笑わなかった。笑えなかった。わたしだけがそれを見ていくぶんスッキリした気持ちになっていた。なにかの間違いでヨウタが本当にスコップで叩かれて、大ケガをすれば良かったのにとも思った。わたしはいつのまにかヨウタの耳や鼻がスコップでぐしゃりと潰れ、血が吹き出し裂ける想像をしていた。目が飛び出て、鼻から脳髄が飛び出し、頭蓋骨や歯がバラバラに露出するヨウタを思い描くととても痛快だった。

 スコップの一件があってから、怒らないごっこはだんだんと収束にむかっていった。「やられるとやばい」と思った者から順に暴力の連鎖がおとなしいものになっていき、叩く、蹴るといったことを平気でやっていた友達も、消しゴムを隠すくらいの中途半端なことをしはじめた。そうするとクラスの独特な緊張感は一気にしぼんで、怒らないごっこはその魅力を失っていった。

 しかしなんとなく誰も「怒らないごっこをやめよう」とは言いださなかった。一応やめていないのだからと順番にちょっとしたイタズラをしあっては「はいはい」といった具合で許すのがしばらくつづいた。わたしの番になったときも、いつも一緒にいるミカからおでこをピンと叩かれて「どう?」と聞かれたので「許す」と言って終わりだった。はっきり言ってみんな怒らないごっこに飽きていた。しかし一番にルールを破るのもなんとなく嫌で、誰しもとりあえず怒ることをしない生活をつづけていた。

 怒らないのが板についてしまったせいなのか、私たちは学校がおわっても怒らないごっこをしていた。というか怒らないのに慣れて、怒れなくなってしまっていた。わたしたちクラス全員が、ちょっとくらいのことが起きても笑顔で許すのがふつうになっていたのだった。妙な脱力感が、からだ中を包んでいるようだった。先生方から「このクラスはなんだかみんな穏やかねぇ」と関心されるようになったが、みんな自分たちが妙なことをしている自覚があるせいで「そうですねぇ」といってその場を誤魔化した。わたしは家でも「なんか性格がおとなしくなった?」と家族に言われた。母は先日の髪の毛の件があったので、また心配してきたが、「性格が荒れるならまだしも、落ち着いて穏やかになった娘を心配されても困る」とわたしがいうと「そうね」といって気にするのをやめたようだった。

 ***

 ある日、学校終わりに公園で遊んでいるとクラスメートが10人くらい集まり、かくれんぼをすることになった。わたしは隠れる側になったので、個人的にもっとも見つかりにくい特別なポイントだと思っている公園トイレ横のベンチ近くにある茂みに隠れた。ベンチにいつも大人のひとたちが座っていることが多いので、その先にある茂みには、なんとなくみんな目がいかないのだ。

 そのときもベンチには男の人がひとりで座っていた。わたしはその人がうまく目隠しになるよう茂みにしゃがみこんだ。しばらくすると鬼が近づいてきてトイレのあたりを入念に調べだした。見つかってしまうかと思ったが気づかれずやりすごした。やはり茂みまでは見ないようだ。うまくいった。ここはなかなかいいポイントだぞと、わたしは心の中でほくそえんだ。

 すると急に目の前に人影が立った。ベンチに座っていた大学生くらいのメガネをかけた男の人がこちらへきたのだった。「ねえ」とその人は言った。知らない顔だった。大人しそうなお兄さんって感じのその人に、わたしは何かしてしまったのかと思い、しゃがんだまま「はい」と答えた。

 すると腕を引っ張られた。予想外に強い力だった。そのまま引っ張られ、持ち上げられるようなかたちで立ち上がった。「えっ」というと、お兄さんは「さっきからずっと見てたよね?」と早口にいった。「いやみてないです」とわたしが答えようとする途中で「わかってるよ。いいよ、わかってるから。興味あったんでしょ? 大丈夫だよわかってるから。いうの恥ずかしいでしょ?」といって、わたしの腕をぐいぐいと引っ張った。

 わたしは訳もわからずお兄さんに手を引かれ、ユニバーサルトイレのなかへ連れていかれた。嫌な予感がして急に動悸がしだして、心臓が汚い雑巾で締め上げられたような気持ち悪さを覚えた。叫ばなきゃいけないような気がするのに、喉元になにか詰められてしまったかのように叫び声ひとつも出なかった。そのままトイレのなかにふたりで入ると、お兄さんは鍵をしめた。そして「パンツぬいで」と笑顔でいった。わたしが呆然としていると、ほらはやくと慌てたようにわたしの体を触ってきた。ものすごい力だった。気持ちの悪い、臭い、下卑げびた呼吸が耳元に触れた。わたしは怖かった。恐怖で頭が真っ白になってしまった。これはヤバイやつだ。ヤバイ。そう思ってもなにも抵抗できなかった。

 小さな声で「あのやめてください」、「あのやめてください」と何度も繰り返し言った。驚いたことにそのときのわたしはお兄さんに対してヘラヘラと笑っていた。自分が信じられなかった。怒らないごっこのせいだと思った。怒らないごっこで嫌なことは笑って流すものだと体が覚えてしまったから、わたしは怒りかたを忘れているのだ。さて怒るのはどうやるんだっけと自分の体が呑気に言っていた。久しぶりに行ったお店でルートがわからず、ずっとウロウロしているような歯がゆい感覚だった。わたしがそんなふうにしてヘラヘラしているあいだも、お兄さんの動きは止まらなかった。なんとか体をこわばらせて、ズボンを脱がされないように押さえつけていたら、あるタイミングで頬を思い切り平手打ちされた。

 パーンという音とともに右の耳からほっぺたまでに電気のような衝撃が走り、痺れ、キーンと耳鳴りがした。一瞬で体の力が抜けた。危険を察知した自分の体があらがうことを禁止しだした。わたしは無表情になった。お兄さんは荒い息を吐きだしながら、わたしの衣類をはぎとり裸にした。「これじゃもう出れないね、外」というと、自分もズボンを脱いで下半身を露出させた。「これ見たかったんだよね?」と言った男の、奇妙に口角がにやけあがったおぞましい表情が、わたしの目の前に置かれた。それでわたしの意識はほとんど飛んでしまった。

 気がつくと景色がスローモーションになっていた。

 わたしは顔面を両手でつかまれそのままトイレに横倒しにされる途中のようだった。世界が傾斜し地面が近づいてくるのが理解できた。理解できた。理解できた。理解できた。

 理解できる……。そう思った瞬間、わたしの体は動いた。ほとんど勝手に、脊髄反射的に動いた。周囲の音が消え、わたしはわたしの顔面をつかむ右腕を両手で思い切りつかむと、えぐりとるつもりで爪を立てた。大きな指が自分の顔から離れた隙をわたしの体は見逃さなかった。わたしの口は目の前にきた薬指を噛んだ。無表情のまま思いきり噛んだ。ぐにゃりとした感覚の次に、ごりっという肉と骨の音が聞こえた。わたしはそのまま無心でそれを噛みちぎった。鶏手羽の軟骨を噛みちぎるような感覚だった。ごるりきしゅりという音がわたしの頭骨に響いて、わたしの口の中に少し細長くて大きめの飴玉くらいのなにかが入り込んだ。そのなにかが喉元にきた瞬間、わたしは反射的にそれを飲み込んだ。

 ほとんど数秒のことだった。

「ぐぅぅぅ」とお兄さんが右手を押さえてその場にうずくまった。わたしはスローモーションがなおり、目の前のお兄さんの手から血がダラダラと流れでるのを横目に、慌ててトイレの鍵を開けた。そして服を拾い、裸のまま飛び出した。一気に走りだすとトイレのすぐそばで、友達がふたり、わたしを探していた。裸でトイレから飛び出てきたわたしを見て「どうしたの!」という友達に「変態に襲われた!」と叫ぶと、ひとりはすぐに警察へ連絡しにいってくれた。そしてもうひとりはトイレへ向かって走りだした。ヨウタだった。ヨウタはトイレの掃除用具入れからデッキブラシをとりだすと、「てめえよくも!」と叫び、お兄さんをこれでもかというくらい全力で何度も叩いた。何度も何度も叩いた。そのときのヨウタの背中はもう大人のような体つきだった。お兄さんは顔面や股間を中心に、体中をデッキブラシで殴打されつづけ、鼻血をたらしながらうずくまっていた。ヨウタはデッキブラシが折れてしまっても、まだお兄さんを叩きつづけた。

 わたしはそのあいだに、なんとか服を着た。しかし服を着てる途中で急に怖さが戻ってきて、ガクガクと膝が震えだし、立つこともできなくなってしまった。その場に座りこんでいると警察がきた。警察は威圧的にあくまで冷静にわたしたちに質問をし、お兄さんがわたしを襲いかけていたことを把握すると、血だらけのお兄さんを持ち上げ連れていった。お兄さんは警察がいろいろ質問しているあいだ中、ずっと「こんなことするつもりじゃなかったんです」と小声で繰り返し言っていたが、結局、抵抗もせず連れていかれた。わたしは怖くて怖くて死ねと思った。警察と話をしているあいだに、親が真っ青な顔をして迎えにきて、そのまま警察と話をし、現場検証が終わると家へ帰った。怖くてその日はずっと震えていて母といっしょに寝た。夢はみなかった。よかったと思った。

 このことは地域のニュースに載るくらいのちょっとした事件となった。次の日から公園は出歩き禁止となり、登下校は保護者がつくことになり、わたしはしばらくお兄さんのことを思い出すたびに恐怖におそわれたけれど、それも時間と共になんとかおさまっていった。事件があった次の日に怒らないごっこは終了になった。ヨウタが怒ったからだった。「俺、怒ったからもう終わりにしよう」と本人が言うと、みんな怒らないごっこは終わりにしたかった時期だったので、ちょうどよかったいう感じでお開きになった。ヨウタはお兄さんをボコボコにして、みんなからちょっとしたヒーローみたいに扱われていたけれど、まったくうれしそうじゃなかった。

 ***

 わたしはある日の放課後、ヨウタを学校の図書室に呼び出してふたりきりになり、「あのとき、ありがとう」と言った。正直、事件のときからヨウタのことがカッコよく見えていたし、好きになっていた。ヨウタはわたしに「うん」とだけ言った。みんなから称賛されたときと同じで、やはりうれしくなさそうだった。しばらく黙ってから「おまえ、あのあと夢みるか?」と聞いてきた。なんのことかわからず「見ないよ?」と返事をすると、彼は地面をみたまま「あの日から毎日、夢を見るんだ」と言った。

 その夢のなかで自分が目の前の男をデッキブラシで叩いているとだんだん気持ちが良くなってきて、暴力が止まらず、いろいろな方法で痛めつけるようになるんだと言った。「そうなると近くに包丁とかペンチとかがあって、おれは待ってましたとばかりに爪を剥いだり、のど元を切り裂いたり、内臓を取り出したりするんだよ。そうするとおまえとか周りのみんなが、すごいとかもっととか言っておれを褒めるんだ。おれはうれしくてうれしくて夢のあいだ中、ずっと男がどうやったら苦しんで、あえぎ、自分のやったことを後悔するかアレコレ必死に考えて、拷問をしつづけるんだ……」というと眉間にシワを寄せた。

 気持ち悪いだろという彼に「ぜんぜん」と言って、わたしはじつは、こないだヨウタに髪を切られたことを恨んでいて、アンタが追っかけられていたときスコップで頭が割られるのを想像してとても痛快だったよと言った。そして笑った。嘘じゃないし、嫌われないと思った。ヨウタはわたしのほうを見た。そのあと「そうか、そうなのか」と言った。眉間にシワを寄せたままだったが、その表情から察するに、ヨウタはすこし安心したようだった。

 しばらく無言がつづいた。わたしにとってそれは心地のいい沈黙だった。図書館の窓の外がうっすらと黄色く暮れていった。ヨウタが先に口をひらいた。

「夢で最後のほうになると、おれ、男の指をさ、ぜんぶ切り落とそうとするんだ」

「指?」

「残酷だろ?」

「べつに」

「それであの男の右手をまず持ちあげて、一本ずつノコギリで切り落とそうとするんだけど、一本、足りないんだよ」

……

「薬指が足りない。ヤクザみたいに第二関節くらいから上がないんだよ。そうしたら周りのみんなが急に指が足りないじゃないかって言って、おれのことを責め出すんだ。なにしてんだ。ぜんぶ切り落とせないじゃないかって。そのときのみんなの顔がさ、怒ってんじゃなくて、穏やかに笑ってるんだよ。わかるだろ? 怒らないごっこのときのあの顔なんだよ。仕方ない人間ですね、おまえはって。みんながおれを嘲笑うんだよ。おれは恥ずかしいのと怖いので、どうしようもなくなって、必死に薬指を探すんだ。でもない」

……それで……どうするの?」

「しかたないから別の方法で男を痛めつけるんだ。とんかちで顔面を叩いたり、歯をひん剥いてみたり、唇をカットしたり。でもみんな許してくれないんだ。仕方ないねと言いつづけている。そもそも笑ってるからわからないんだ。許してもらえるのか、そうじゃないのか。みんなずっと仕方ないですね。許しましょうと言ってて、でもおれのことを許す気なんてないんだよ。じっと見つめつづけてるんだ。そのうち汗が止まらなくなって、叫びそうになって起きる……

……

「ここのところ、毎日、見てる」

 わたしは考える。あのお兄さんから逃げ出すことができなかったら、わたしはおそらく今頃、死んでいただろうと思う。だってああいうことをされて、そのあとわたしが「はいじゃあね」とお兄さんを許して家に帰るわけがないのだ。あれは間違えようもなく犯罪で、なかったことにできる話ではない。そして逃げ出したら警察へ通報にいくとわかっている子供をみすみす逃す犯罪者はいない。

 だからわたしはあのとき、生きるために、必死であのお兄さんの薬指を噛み切った。そして偶然、喉元にきてしまった指を飲み込んだ。わたしの胃には犯罪者の指が詰まっている。実際は消化されて、もう存在しないのかもしれないけれど、飲みこんだ事実は消えない。だからわたしは自分のお腹にずっと指を抱えこんで生きていく。

 あのあと警察から指について聞かれたことはない。わたしが被害者だし、おそらくあのお兄さんはわたしに指を噛みちぎられて、飲み込まれたなんてことを警察に言ってないんじゃないかと思う。

 飲み込んだ指がヨウタを苦しめていると思うと、ヨウタのことがとてもかわいそうになって、わたしは彼を抱きしめて「ごめんね」と言った。抱きしめられるとヨウタはせきをきったように泣きだした。彼の目から流れる温かい液体が私の胸のあたりを濡らした。彼にいうべき言葉は、ありがとうや、すごいではなく「ごめんね」だったのだ。今さらわたしは気づき、あらためて彼のことを申し訳なく思った。

 同時にわたしは指のことを一生、誰にも言わず黙っておこうと決めた。これは自分の体があのとき死ぬのを拒み生きていくために受けとった、極めて個人的な呪いであって、この先を生きていくと決めたわたしにとって指のことはどう考えても他人に黙っておいたほうが利点が多かった。

 目の前で泣くヨウタをわたしはとても愛しいと感じていた。ヨウタの夢がいつか薄れ、彼自身が彼を取り戻すまで、わたしが彼を支えてあげようと思った。そういう決断と感情が入り混じったものを自分のなかに見つけたとき、わたしは自分がもう子供ではなくなったのだと、唐突に実感した。

(了)