医情の血|9,518文字

医情の血遙夏しま2021・01

 その血とその血とその血。みっつを混ぜればいいんだ。血を混ぜれば目の前のそれは甦る。簡単だろう。おまえは医者だったんだから。再びそれが目をあけて、おまえに微笑むことをおまえは望んでいるだろう。蘇るのがいいにきまっているからね。おまえはそれを愛しているし、まるでおまえの分身や片割れのように心の底から欲している。迷う必要はない。時間は有限で待ってはくれないものだ。いい大人がそんなことを知らないわけはあるまい。さあ。はやく決めて行動に移すといい。行動こそがこの世界のすべてだよ。思考など外に出すこともできずグルグルその場を回るだけの座敷犬といっしょだ。おまえが高尚ぶってウダウダと考えていることなんて、目の前のそれに砂粒ひとつだって影響を与えやしない。おまえの思考とそれとどちらが大事かなんて火を見るより明らかだ。行動しろ。行動を起こせ。行動がすべてだ。

 まいった。もう考えるのにも疲れてしまった。

 診察室を出て顔を洗いに自宅の洗面所へいくことにする。窓をあけた廊下では海風がそよいでいる。五十年以上前、妻とふたりで建てた木造の自宅兼医院は、住宅と個人医院と、ふたつの建物がみじかい廊下で繋がっている。海辺の高台に建っていて、静かな場所と見晴らしの良さと。患者のなかにはそういうのがとてもいいと好む者がいる。

 ***

 戦争直後の時代に医師免許をとって、当時、見合いというのが古臭いと意気投合した同じ医大の女性を妻にとった。数年間、大病院での勤務医をやって夫婦共に人並みにくたびれ、夜勤に慣れてうまく寝れなくなってしまった頭を慰めるために集合住宅のキッチンでふたりして煙草を何本も吸っては、三島由紀夫だとか谷崎潤一郎だとか夏目漱石だとか坂口安吾だとか、片っ端から文庫を読みこんで過ごしていた。

 そんな折、妻が「海辺の医院なんていいじゃない」と開業医を私に勧めた。

 当時は個人院なんて病院の派閥争いから外れた負け犬がやるものだった。だから最初は妻のいうことに耳を貸さなかった。しかししばらくして勤務医が飽きてきて、派閥争いも何に勝とうとしているのかよくわからないし、個人院なら空いた時間で好きなだけ本も読めるだろうと気がつくと、それも悪くないなと思いはじめた。

 手のひらを返して開業医を目指すことにして、親戚と銀行とをまわって借金して、高台の海が見える場所を不動産屋に見つけてもらい、自宅と医院があわさった建物を建てた。勤務医の友人たちからは「どうしたんだ?」「逃げるのか?」と顔をしかめられたが、開業して数年もすれば、忙しさでそれどころじゃなくなり、勤務医時代の縁もすっかり切れてしまった。

 海が見える土地はえてして郊外といわれる田舎であり、病院も近くには少ないことから、専門領域に特化していた勤務医時代とはうってかわって個人医院はなんでも屋だった。

 風邪っぴきの乳幼児から、喧嘩で中指を折ったやくざまがいの青年から、世間話が目的の高血圧の老人から、池で泳いで中耳炎になり熱発した小学生、毛虫に刺された農家、めやにが止まらず悩む少女、痔になった漫画家、性病に怯える既婚男性、アキレス腱を伸ばした教員、髭剃りで唇に穴をあけた会社員、自転車で転び血だらけになった中学生、動悸とめまいが止まらない主婦、胃がんを疑う中年男……毎日毎日ひっきりなしに患者が訪れ、それらにアレコレと処置をおこなっていると息をつく暇もなかった。

 かと思えば患者の波が引くと閑古鳥が鳴いたようになってしまい、丸一日、診察室に座っているばかりでなにもないような日もあった。そういうとき私は机の引き出しから文庫本をとりだして読み漁り時間をつぶした。あんまり人が来ないようなら雇った看護師に受付をまかせて自宅に引きあげ、キッチンで煙草を吸って黙々と文庫を読んだ。

 個人院を開くとき「ふたりして開業医をやってしまうと、経営がうまくいかなかったら家計が破綻してしまう」と、妻は自宅から近い病院へ転院して勤務医をつづけていた。だから私はひとりで煙草を吸い本を読み漁った。個人院になってから夜の急な診療にも対応するため、酒が飲めなくなり煙草ばかりを飲むように吸った。妻が帰ってくると面白かった本を勧め、彼女もかわらず煙草を何本も吸い、自分がすすめた本をパラパラと読み漁っては「面白い」だの「まったくだめだ」だの言っていた。医者の不養生とはよくいったもので、私たちは生活というものに大して興味がなかった。時間を決めずに寝起きして、惣菜を買って食い、家が荒れてくると家政婦を雇った。

 開業医ははっきり言って儲かった。薬だしやら予防注射やら鼻水の処置やら、医者にとっての駒仕事ばかりだったが、そういう患者はいつの時代も減ることはなく常に病院へ押し寄せていたので商売に困ることはなかった。病院経営に多少、金がかかるとはいえ、家計は文庫本と煙草を余計に買うくらいのものだったから、使い切れないほど金があるといって差し支えなかった。開業して数年経ったくらいに、投資だとか寄付だとか芸術品の購入だとか、そういう話がやたらときた時期があったが面倒なので片端から断っていたら途絶えた。

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 三十一歳で開業して、四十代、五十代、六十代。生活はずっと続いた。あいも変わらず熱を出した子供がきて、胃カメラを飲みたがる中年がきて、血圧を下げたがる爺さん婆さんがきて、インフルエンザの予防注射をしたがる主婦がきた。四十代の途中から若い勤務医を雇ったおかげで酒を飲めるようになった。キッチンで煙草を吸い、ウイスキーを飲んで、惣菜をつまみ、妻と文庫を読み漁った。子供が三人生まれて、それらは男、女、女で芸大へいって写真家をやったり、自分や妻と同じように医者になったり、専業主婦になったりと好き勝手に育った。妻は勤務医をつづけているうちに大学病院から誘いがかかり、そちらへ勤め、そのうち母体の医大で教鞭をとるようになり、国内をあちこち飛び回っていた。

 私はずっと町医者で、あまった金を減らそうと、たまに六本木やら銀座やらに出かけてホステスに溶かした。銀座のクラブの常連になると自然、政治家の知りあいが増えた。彼らの多くは文学好きだったから話が合った。適当な政治の裏話をしたり作家と時代の話をしたり金の使い道の話をしたり寿司を食ったりした。総理大臣がいて話すこともあった。クラブではたまに勤務医時代の友人とも出会した。彼らは出世しており自分の金を使わず製薬会社に接待される側で、葉巻を片手にふんぞり返ってホステスの胸を揉んでいた。なるほどそういうのが欲しかったのかと私は納得して、それなら今の町医者を選んだのは悪くなかったなと思った。妻はよく自分の性分をわかっているのだな、と感心した。

 七十代になっても医者仕事はつづいた。医者には定年がないからつづけられる限りつづけることができた。くしゃみが止まらなくなったおばさんがきて、風疹のワクチンを求める母親がきて、池で泳いでいた中耳炎の小学生が親になって子供を連れてきた。「この病院もだいぶくたびれましたね」と患者に言われるようになった。もう四十年やっているからと答えた。「先生は変わりませんね」と言われた。そうですかね、と答えた。薬をだし、注射をうち、外傷を縫い、X線で肺を撮った。風邪薬ってものはこの世にはないんだと子供に言い、ウイルスと菌の違いを説明し、胃の粘膜が加齢によって薄くなることを中年たちに解説し、スズメバチの毒反応について林業者に教え、癌は細胞のエラーだから発生するのが普通なんだと高齢者たちを諭した。

 そのあいまに煙草を吸い文庫本を読みつづけた。戦争小説を読み、歴史ものを読み、時代小説を読み、サスペンスを読み、海野十三、堀越二郎、安部公房、泉鏡花、司馬遼太郎、遠藤周作、池並正太郎、藤沢周平、半藤一利、横溝正史、江戸川乱歩、宮部みゆき……文字さえ追えれば別になんでもよかった。本はありつづけた。本も患者たちといっしょで目の前からいなくなるということがなかった。

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 八十代に入ったとき、妻がすこし変わった。なにかに祈ったりすがったりするようなことが多くなり、急に値の張る数珠を買ってきたり、木製の大きな仏像を自分の部屋に置くようになった。神仏や縁について顔を合わすたびに喋るようになり、感謝だとか有難いだとかやたらと言うようになった。気丈な女だったけれど、誰だって年をとれば気弱になることもあるのだろうと放っておくことにした。どうせ金は余っていた。子供に家を買ってやったり、孫の教育費に使ってやったりしていたが、彼らも特別、金を使うようなたちではなかったから、自分の老後を含めても足りなくなることはなかった。百万や二百万の話なら多少の買い物くらい、妻の精神安定剤だと思えば別に問題ではなかった。

 それでも町医者仕事はそろそろ潮時かもなと考えた。妻はいまだに客員講師で日本各地で教鞭をとっていたが、やはり年齢的に辛そうだった。そういう自分だって診察室の椅子に座りつづけると腰が痛くていけなかった。銀座や六本木に繰り出すのも億劫で足が遠のいていた。ひと月ごとに体力が減っていくような実感があった。勤務医と町医者とあわせて五十年ばかり仕事をやってきたのだ。妻もほとんど同じだけやっている。そろそろゆっくり養生させてやってもいい頃だろうと思った。

 八十二歳になったとき、私はキッチンで煙草を吸って読書している妻にそのことを伝えた。「そろそろもう体力がもたないから引退だな」という私を妻は笑った。そして「いいわよ。わたしは縁がある限りはやれるだけやるから、あなたは好きにしなさいな」と言い「とはいえ、わたしだって、きっともう二、三年てところなのよねぇ」と薄く笑って、煙草の煙をぷぅと出した。よく見ると妻の顔は皺だらけだった。いや顔だけでなく、首だって、手や腕だって、全身が皺だらけだった。そしてその皺は私自身にもつながっていて全身にくっきり刻まれていた。「先生は変わりませんね」といった患者の言葉を思い出した。変わってるじゃあねえかと私も笑って、煙草の煙を吹いた。

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 その話から三月もしないうちに、妻がアルツハイマー型認知症を発症した。「航空券が、チケットがないのよ」と慌てる妻のところへ行くと、しっかりと手に持っていて、何を言ってるんだと、たしなめたのが恐らく最初の症状だった。

 そのうちに妻の大学から電話がかかってきて、どうも様子がおかしいから自宅で様子を見てくれと言われ、大学へ迎えにいくと来客用の部屋で怯えたような顔の妻がパイプ椅子に座っていた。妻は仕事着ではなくジャージを着ていた。近くにいた大学の事務員が「申し上げにくいのですが、粗相をなさってしまったようで……」と耳打ちした。妻は私をみて安心したようで「良かった、ちょっと知らない場所で迷子になっちゃって、このかたに助けてもらったの」と言った。私と事務員は目をあわせ、首をかしげた。

 すぐに家へ連れ帰って簡単な認知能力テストをした。妻は小学生レベルの計算どころか、カレンダーを読むことも、釣り銭の勘定も、キリンとカエルの区別だってうまくできなくなっていた。今が二月の終わりで、冬だということもわかってないようだった。妻の疲弊は自分が思っていたよりも深刻なものだったのかもしれないと私は思った。ここ数年、数珠を使って、毎日、仏像に経文をとなえる彼女を思い返し、もっと何かしてやれなかったかとか、もうすこし早く仕事を辞めさせればよかったとか考えた。

 専業主婦をやっている末の娘に電話をして事情を話すと家にきてくれた。妻は娘の顔を覚えていた。私は胸をなでおろした。娘に食事を作ってもらい食べていると、妻は自然な動作で煙草をくわえ、近くにあった文庫本を開いた。内容を聞くとさらさらと答え、そして「これは私にはあんまり面白くないわね」と言った。しっかりと読んでいるようだった。娘が小声で「本当に認知症なの?」と聞いてくるので、私は「43-7は?」と妻に聞いた。「よんじゅうさんひくなな? そんなの……じゅうはちでしょう」妻はまじめな顔で答えた。

 妻の来年度以降の講師契約を断り、私も町医者を辞めて介護に専念することにした。長男と長女は働くのが好きで、自分の母が認知症だと言われると見舞いにだけきて、さっさと自分の持ち場へ戻っていった。親に似たなと苦笑してしまった。末の娘だけが親に似なかったのか世話焼きで助かった。娘の子供たちももう大学を出て就職していたから、定期的に来てもらいすこし手伝ってもらうことにした。それでも娘にだって娘の家庭があるのだから、あまり負担はかけたくなかった。家政婦と介助ヘルパーを雇って対応してもらうことにした。

 妻は刻々と記憶を失い、生活動作を失っていった。弱っていくものの本能なのか、トイレや風呂で見知らぬヘルパーが介助に入るのを極端に嫌がった。記憶が薄れてくると誘拐なんかと間違えるのか「ぎゃあ」とか「ひゃあ」とか奇怪な叫び声をあげることもあった。そういうときは仕方がないから私が介助した。妻の体はすっかり軽くなっていたが、それに負けず私の力も衰えていた。妻をトイレに座らせようと担ぐたびに肩や腰や膝が軋む音が聞こえるようだった。

 ヘルパーは自分が拒否されるのをつまらないと思ったのか、来るたびに態度を悪くしていった。不貞腐れた態度をとられれば、こちらだって面白くないので私と言い争いが起き、結局、介助ヘルパーは断ることになった。介助が自分ひとりにのしかかってくると体力的な疲れが一気に積み重なった。自分がいなければ妻の生活が成り立たないと思ってしまうせいか、単純に体中の筋肉が疲労で炎症を起こしているせいか、夜うまく眠れなくなり日中もうろうとすることが増えた。

 悪いことは重なるもので、その直後に家政婦が盗みを働いて逃げた。契約で守られているからと油断して銀行預金をおろしてもらっていたのがいけなかった。家にあった通帳のほとんどを盗み、家政婦は身を暗ませてしまった。分散管理などしていなかったから、預金のほとんど丸ごとを盗られてしまった。家政婦の会社に訴えを起こし弁護士を通じて賠償命令を出したが、盗られた額が大きいのもあって戻ってくるまでには数年を要するようだった。子供たちの助けと年金とで、直近とりあえず生きていく生活費は確保できたが、この一件で家政婦をいれることも嫌になり辞めてしまった。週に二回、末の娘が来る以外は、妻とふたりきりで過ごした。

 私はすっかり疲れきっていた。キッチンで椅子に座って黙っているばかりがやっとだった。向こうのベッドでは、身を起こし独り言を唱える妻が見えた。いつのまにか妻は一日中ぶつぶつと小声でなにかを唱えるようになっていた。うなだれた格好でなにもない一点を見つめ、妻は独語を吐きつづけていた。この家だけ時間の流れが淀み、重たい息が充満して、光が損なわれてしまったかのようだった。陰鬱な生活がつづいた。そんな状態でも私は生きていたし妻も生きていた。どのような状況であれ人は生きることに対して選択肢を持たないのだった。そういう当たり前の事実に今さら気がついた。

 ***

 認知症がわかって半年くらい経つ頃には、妻はほとんど寝たきりになり、子供たちの顔を忘れ、私のこともわかる日とわからない日が出てくるようになっていた。たった半年前まで煙草をぷぅと吹いて強気で笑っていた女は、今や風で倒された枯れ木のように介護ベッドの上で縮こまっていた。床ずれを防止するため、横向きに寝かせたり、仰向けに寝かせたりするたび、目の焦点が合わない妻に「やめてください」だとか「お父さん助けて」だとか、ひゅーひゅーと喉を向ける息とともに弱々しく言われるようになった。私は黙って妻の向きを変え、下手くそな粥を炊いて食わせた。医大の研修医時代、首を切り落として実験に使うために飼育していたモルモットへ、たんたんと餌をあげていた光景をふと思い出した。

 定期的に訪れる排泄と食事と、たまにひゅーと音を鳴らす呼吸音が、今の妻から感じとれる生命活動の表現だった。不思議と私は妻をこれ以上なく愛おしく感じた。その動きのひとつひとつが自分をいたわるがために妻が起こした行動であるような感覚を覚えたからだった。枕元に置いた煙草と文庫本に、もはや妻は触れることなく、それはただの供物となっていた。妻が数珠や木彫りの仏像へ生活の希望を見いだして、日々すがっていたように、枕元の煙草と文庫本もまた私にとってのすがり先になっているのだとわかり、なんともいえない恥ずかしさが芽生えた。

 ***

 家政婦をいれるのを辞め、妻とふたりきりになってひと月経つか経たないか、その頃に、私はの声が聞こえるようになっていた。悪魔は妻を介助しているときや、キッチンで休んでいるとき耳元で囁いた。実態のない低い声が「妻を元に戻したいなら、おまえが妻を分断させて得た、子供たちの血を混ぜて打ちこめばいい」と言うのだった。なんのことだかわからないが、とにかく、とうとう俺もヤキが回ったなと笑ってしまった。幻聴なのだろうと思い、放っておくことにしたが、こちらが聴き耳でもたてていると思ったのか悪魔は次々と喋った。

「おまえは妻を求めていたのにも関わらず彼女を分断させてしまったんだ」

「子供らの血はもともとはおまえの妻のものだったのだ」

「おまえが肉をもって彼女の血を覆い、彼女は子供を孕むことになった」

「彼女をもとに戻せ。血を混ぜろ。みっつの血が混ざれば、それは元の妻である」

 悪魔がいうには私は妻を分断させた者であり、妻は分割されその一部は私たちの息子、娘に血として存在し、私が子供たち三人の血を混ぜて妻に輸血したならば、妻は元の状態に戻るというのだった。たいがいバカらしい話だと思った。悪魔とはいえ、つくならもう少しマシな嘘をつけばいいのにとすら考えた。自分の子供だろうがなんだろうが血液の相性も確認せず、他人の血を混ぜ合わせて輸血などすれば、ぶじでいられるはずがないからだった。それを三種類も混ぜるという。下手をすればショック死してしまうことだってある。くだらない。

 悪魔は平静を装う私に対して、厳しい口調で「おまえは実際に血を混ぜたことがあるのか」と言った。私は悪魔に「ない」と答えた。悪魔は私の返事を聞くと間髪いれず「ほらみろ」と言った。

「見もしない、やったこともない。そういうものを確からしいと信じ込んで決めつける。人間とはいかにも無知で愚かなものよ。おまえは実際に血を混ぜて人に打ったことがない。本やら論文やらで読んだり、人伝に聞いたりしたことを論理でこねくり、妥当だからと鵜呑みにしている。常識だと当然だと思い込むことで、漫然と真実を見落としているのさ。絶対に確実にみっつの血が危険だと、今のおまえに証明できるか? できないだろう。おまえはできもしないことを盾に悪魔である俺へ愚かしく楯突いている。それが無益で、意味もなく、ただただおまえを苦しめる判断だったとしてもだ。おまえは目の前の妻をただ見過ごして死なすよ。おまえがせっせと盲信して溜め込んだ常識が、それを殺すんだ。せっかく俺がそれを蘇らせてやろうとしているのに。もったいないことだ。分割された血をみっつ混ぜるのはじゃんけんと同じだ。ふたつならば勝ち負けはそれぞれにあるが、みっつならば均衡し調和する。ふたつ血を混ぜただけでは、それはただの免疫不全を引き起こす代物だが、みっつならばどうか。みっつの血はまったく新しい生命になるんだよ。血と血と血が争い、同時に結合を繰り返す。短期間の爆発的な連鎖反応が滞った血流に活力を蘇らせる。それは人類が誰も触れたことのない血の神秘だ。しかし誰も試したことがない。危険だと思い込み失念しているからだ。愚かしい。おまえはそんな人類の間違った常識をまねて信じてやる必要はないだろう。悪魔だけが真実を知っている。おまえに神秘を授けてやっているのだ。さあ目の前のそれを蘇らせればいい。それとも死ぬのを待っているのか」

「待っていない」と私は答えたが悪魔はもうなにも言わなかった。ふたたびキッチンに鈍い沈黙が戻った。妻はベッドの上で眠っているようだった。

 子供たちの血は今、個人院の診察室にあった。健康診断になるからと定期的に子供たちの血液検査をしているからだ。私はまだ片付いていない病院の診察室へ行き、先日、採取した子供たちの血を眺めた。採血管に入った子供たちの赤黒い液体を軽く振ると、まだドロリとしていて、それは血というよりもちぎった内蔵の欠片のようだった。

 ***

 それから何度も自宅と医院とを往復した。「なにをバカな幻想にふりまわされているんだ」という思考と「早くしなくては妻が取り返しのつかないことになる」という思考が、交互に繰り返された。その間に悪魔が入ってきては「みっつの血を混ぜろ……」と長い講釈をたれた。自分がに対して冷静じゃないのか、いまいち確信がもてなかった。

 ***

 そのうちに悪魔の台詞を思い出し反芻していると、なんだか悪魔が喋る内容のほうが、もっともらしいように思えてきた。というのも私はこの半年の間、ただただ目の前の妻を世話しているだけの人間だった。いやその前だって、ただ町医者として駒仕事を繰り返してきただけの人間だったのだ。悪魔の知性に敵うだろうか。いくら文庫本をうずたかく積みあげ、銀座で総理大臣といっしょに高級な酒を酌み交わそうと、私の知性などたかが知れている陳腐なものだった。かたや悪魔はこの世界の真実を見つめつづけている存在なのだから、私と悪魔と、その言い分で私の比重が大きくなるなんて考える方がおかしいのかもしれない。

 だんだんと自分の動悸がはやくなっていくのがわかった。同時に悪魔がまたささやきはじめた。「行動するのだ」「早く」と。私は自分の常識と妻とを天秤にかけた。当然、妻が勝った。私は車椅子をもって急いで自宅に戻ると、妻をそれにのせた。妻は私に起こされると目を覚ましたが、まぶたは半分も開かれず、その視線もどこか遠くの彼方を見つめて、ヒューヒューと呼吸をするばかりだった。診察室へ連れていくと診察台へ横に寝かせた。まっすぐに固まった足の指先をなでて「今、もとに戻してやるからな」と妻に言った。妻が元に戻るのがわかると、それが余りに喜ばしくて口元がにやけるのが止まらなくなった。はぁはぁと浅い息で、採血管に入った三人の子供たちの血をひとり分ずつ慎重に混ぜ合わせようとしたが、あまりに緊張しているのかうまく手が動かなかった。

 いったん落ち着くために大きく息を吸い、自分の手をじっと見つめてみると、ふるふると震える両手が、妻と再び煙草を吸って、文庫を読むのを夢に見ていた。瞬間、私は泣いた。どうしようもなく声をあげて泣いた。赤ん坊に戻ったようにぎゃあぎゃあと、おいおいと泣いた。

 私は妻の前で号泣したかったのだ。その事実を、ずっと、長いあいだ、今の今になるまで、気がつかないふりをして生きてきたのだった。なんということだろう。

 しかし私がすがりつきたい妻は、今や横倒れになり、世界と自分とを隔絶させて、ただ呼吸をしていた。私は泣きつづけた。涙はまったく止まらなかった。生まれた頃と同じようにこんこんと溢れ、私と妻にすっかり深く刻まれた取り返しのつかない皺のあいだを流れつづけた。もう止まらないで欲しいとぼんやり考えた。私にはそれだけが希望であり、命の根拠だった。

(了)