草原が来る遙夏しま2021・01
彼女は風呂あがりの髪をふきながら、「よくわかんないけど女性はそういうの好きな人、多いんだよねー」といった。冷蔵庫をあけて缶ビールを取り出すとテレビを観るためにリビングへいきソファへ座る。
キッチンにいた僕はカモミールティーを煎れている。彼女の言葉を聞いて「ほんとよくわかんないよ。だいたい小説のことしっとりしてて良いって言うけど、そもそもしっとりってのもなんだかな」と返す。彼女が自分の意向を汲んでくれてなんとなく嬉しいのだ。
カモミールティーをソファまでもってくると彼女は僕に缶ビールを、僕は彼女にカモミールティーを渡す。互いの飲み物を用意するのが同棲の一応のルールになっている。
僕は一応、小説書きを生業に生きている。大学の経済学部を出たあと株式売買だとか市場理論だとか、そういう基本的な経済知識が学べる物語を書いてみた。ただ単純に教科書みたいな小説を書いてもおもしろくないだろうから、差別化として女性をターゲットにした恋愛小説にした。恋愛小説を読み終えると経済知識が増えているってやつだ。
それが良かったらしい。ありそうな切り口だと思っていたが意外とないようで、入り込めるストーリーに合わせて覚えたことが想起しやすいと評判を得ている。
こちらとしても教材ごとに物語を書けるし、続編やシリーズも作りやすいうえ、特に難解なストーリーを用意する必要もないから、わりと良い商売になっている。恋する女性たちが経済を学ぶ必要に駆られる時代でよかった。
しかし今、受けている依頼に問題がある。自分がふだん書くジャンルとまったく違うのだ。
付き合いのある女性誌から定期連載で恋愛小説を書かないかと打診された。打ち合わせをしたたところ今回は自分の売りだと思っていた「経済の教科書要素」はいらないと編集者に言われた。
それではただの恋愛小説になってしまうし、僕は自分に純粋な恋愛小説は書けないと伝えた。すると担当の編集者は「しっとりとした風合いと、明快な解説ロジックがあなたの魅力だし、それを用いて少し意外性のある角度から切り込むのはどうだろう?」と言い始めた。
嫌な予感がした。
しかし話を取りやめるわけにもいかず、打ち合わせをつづけた結果、いつのまにか「遠い未来の地球」をテーマにSF調で恋愛物語を書いて欲しいと依頼されていた。
しっとりした風合いと明快な解説ロジック。
SFでいて恋愛小説。
そして遠い未来の地球……。
大混乱もいいところだった。
「それで、どんなの考えてるの?」と彼女が聞くので「そうだなぁ」と、僕は今のところ思い浮かんでいるいくつかのアイデアで一番、具合が良さそうなものを答える。
「エコノミストが予想する遠い未来の地球を舞台にするんだ。おそらく貨幣経済ってものがいつかなくなるだろうって僕は思っていて、貨幣は何にとって代わるかっていうと感情で測られるようになるんだよ。エモーショナルエコノミクスって僕は呼んでるんだけど、つまりね。貨幣っていうのはモノの価値を表す媒体ってことなんだけど、今後、値段づけされる対象が増加していくと、目に見えないモノばかりに価値をつける必要が出てきて数字で表現するのはナンセンスになってくる。だから人同士のエモーション、つまり感情のやりとり、それ自体に価値づけをして経済活動をする世界っていうのがやってくると思うんだよね。例えば……」
「わかんない」
「え?」
彼女はガラスの茶器にはいったカモミールティーを、カップに注ぎながら半笑いしている。
「いや、だからね、つまり感情がお金になるってことで……」
「そういう意味じゃなくて。わかんないっていうか、興味ない」
「興味ない……」
僕はビールを持ったまま硬直する。
「女性誌って〇〇でしょ? たぶん、アレ読む女はその話、興味ないわー。そもそも経済に頭がいかないと思う」と彼女は言って、カモミールティーに口を付ける。一口飲んで「うまい」と言い、ふぅと息を吐く。
彼女は小説家でもなんでもない。近所のセブンイレブンに週五でアルバイトしている。いわゆるフリーターである。その前は一応、大手ゼネコンで事務職員をやっていたのだが、僕がフリーランスになってしばらくしたタイミングで急に辞めてしまった。
彼女いわく人生には定期的に余白期間が必要なのだそうで、そういう時期になると彼女は生きるのに最低限な仕事をして、夜更かしもせず、酒も飲まず、健康的で地味な食事を繰り返しながら、時間を余らせる。そして余った時間をなにに使うでもなく、洗濯物をたたんだり、テレビを観たり、本や漫画を読んだりしながら過ごしている。「なんとなくが大事なのよ」と嬉しそうに彼女は言う。
わかるような、わからないでもないような、その感覚へ直接手を触れる気にはならず、僕は彼女の行動を遠巻きにみている。あんまりセクシャルな切り分けをするのは好きじゃないけれど、きっとそれは女性的なことなんだろうなと思う。女性的余白。
そういうのもあって、今回の小説依頼に関する彼女の発言には耳を傾けている。
「――女性誌でSFだもんねえ」彼女が眉尻を下げる。僕は調子をあわせて欲しくて「そうだよ。そこから無理があるんだよ」といきどおってみせた。
彼女は僕のほうは見ずに「遠い未来っていうのが、ロマンチックなのかねえ」といって足元のリモコンを拾いあげテレビをつける。バラエティ番組では芸人たちが小麦粉にまみれながら必死に高跳び競争をしている。「髪、ドライヤーかけないの」という僕に彼女は「ん」とだけ応える。
僕は何かネタになるものが欲しくて、なかば無理にでも会話を続けるため「SFで女性がピンとくるのってどんなことなの?」と彼女に質問をしてみた。しかし彼女は小麦粉にまみれる芸人の方がおもしろいらしく、「そうねー」と言ったまま、黙ってカモミールティーを飲んでいる。あきらめて僕も缶ビールをあけた。一口、ビールを喉に流し込んでから遠い未来の地球に想いを馳せてみる。ビールはたしかにうまいが、よい想像はおとずれそうもない。
沈黙。
突然、「草原が来るの」と彼女が言った。
僕は一瞬、なにを言われたのか理解できず「そーげんがくるの?」と彼女が放った音をそのままくりかえした。彼女は「うん」とうなずくと、テレビのすこし上くらいの空間を見つめながらしゃべりだした。
「遠い未来の地球でね。一番、繁栄しているのはもちろん人間なんだけど、それは表面上の話で。実質的に地球を支配しているのは草原なの。人間はもちろん科学だとかそういうのが発展して、まあ地球にはびこってるっちゃはびこってるんだけど、なんていうか主導権がないんだよね。今とはちょっと状況がちがってるの」
「どういう風に状況がちがうの?」
「ネピアっていう草が陸地を侵略している」
「ネピア?」
気になってしまい彼女の話をさえぎる。
「ネピアってティッシュのあれ……?」
「ちがうちがう。ネピアってアフリカにそういう草があるんだよ。知らないの? 小説家なのに」
「知らないよ。小説家は辞書ではない」
「ふーん……、まあいいや。で、そのネピアって草はね。家畜のエサとかに栽培されてるんだけど、超でっかくて、サトウキビと猫じゃらしのハーフみたいなかたちしてるのよ」
「サトウキビと猫じゃらしのハーフ? かけあわせたような姿ってこと?」
「そんな感じ」
「実在するの?」
「もちろん」
彼女は頭にいろいろと思いついたものがあるらしく、それを披露せんとするがごとく、すこし鼻息を荒くしている。
「そのネピアって草はね。ほとんど水のない干からびた荒地でも生えることができて、成長も早くてあっというまに三メートルくらいになって、しかも群衆になって生えるものだから、まわりのネピア以外の植物は日が当たらなくなって全部、枯れちゃうの。ネピアが生えた土地にはネピアが延々はびこっちゃうのよ」
「かなり強靭な植物みたいだね」
「そうそう、強靭。それよ。それであっというまに背の高い草原ができあがるわけ。でね。ここからが私の妄想なんだけど、ネピアってね、人間の思考を侵略するのよ」
「侵略?」
「まあ聞いてよ」といって彼女はふふと笑いながら、手元のスマートフォンでネピアの画像を検索する。
「これこれ、これがネピアなんだけど」
「本当だ。大きなサトウキビと猫じゃらしのハーフだ」
「でしょう。でね。ネピアがこの猫じゃらしみたいな部分から花粉を放つわけよ。花粉は人間の鼻腔粘膜に付着すると根をはやして、体内へ侵攻して脳へいく。それで脳を変性させて、いつのまにか人間の意思を奪ってしまう」
「すでに寄生虫の話とかにありそうだな」
「あ、プロがそういうこと素人にいう?」
彼女が恨めしい目つきで僕をにらむ。
「ごめん、つい。それでどんな風に意思を奪うの?」
「なにさ、気になってるじゃないの」
「いやまあ、それは……もちろん気になるよ」
僕の反応にある程度、彼女は満足したようだった。「ポイントはね」といって彼女はひとの目を覗き込みながら説明をはじめる。彼女のこういうのが正直、とても苦手で、僕は手持ち無沙汰な気分になり、手にもった缶ビールを飲みたくもないのにズルズルとすすった。
「ポイントはね。ネピアに意思を奪われた人間にまったくもってその自覚がなくて、あげくネピアに意思を奪われても一見してそうかわからないところにあるのよ。ネピアに意思を奪われるとね。その人は数十年かけてとても温厚で知的で、平和主義者になっていくの」
「どういうこと?」
「わからない?」
「ピンとこない」
「じゃあ聞いて。ネピアに頭を侵された人間はね。すごく勉強家になって科学技術とか都市開発とか、まあそういうのに一時的にすごく熱心になるのよ。社会の改革だなんていってね」
「ただの真面目な人じゃないか」
「まあ聞いてってば。それでネピアな人々は屈強な都市をつくり、でもその一方でだんだんと作られていく都市システムに対して虚無感を募らせていくの」
「虚無感」
「自分たちが精巧なシステムを作りあげ、動かすたびにたくさんの人間の予定外な一面がみてとれてしまうの。システムの中で人はこれでもかというくらい利己的で非合理的で無責任な行動をとる。システムは彼らの尻を拭うため、さらに冷徹に精緻化され、完成度を上げていく。もちろん人のためのシステムだから、直接、人間へむけてその冷徹さは発揮されない。でも……」
「でも?」
「でもその冷ややかで鋭利なシステムのそれは、作った本人たちの手を擦り抜けて、間接的に人々の喉元へ向けられていく」
「よくわからないな。たとえば、どういうことなの?」
「たとえば、それは貧しいものに向けられ、はたまた想像力のないものに向けられる」
彼女はひと呼吸おくつもりで目線をカップに落とし、冷めてきたカモミールティーをすする。僕は彼女のしぐさをただ見ている。
「そしてネピアは虚無にかられた人々に田舎を作らせようとする」
「ちょっと待ってよ。話が飛躍しててよくわからないよ」
「だって私、プロじゃないもの。足りないところは、あなたがうまく書けばいいでしょう?」
「そんなこと言われてもね。それに多少の差こそあれ、たいがい人ってものは年齢を重ねながら温厚に知的に、そして平和主義的になっていくものだろう? ネピアの侵攻がなんとかと言っているけど、別に関係ないような気もするし……。何しろ、その世の中じゃあ、遠い未来の社会も現代も、あまり変わらないというか」
「変わらないんじゃなくて、変われないのよ」
彼女はうすく笑う。
「人々は散々、知識と道徳を積み重ね、哲学を深め、人の深淵をのぞきこんで、科学と技術を地球で発揮して、それでもさっぱり変われないの。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』がいつまでたっても名著の扱いなの。そういうのって進化っていう?」
「どうだろう……」
「ふつうに考えておかしいのよ。冷静に考えれば。明らかにおかしいの。何千年も探究をおこなった動物が、根本的になにも変われていないなんて。何か人類全体が病気か、そういうことがないとおかしいのよ。でも気づかない。人間は所詮そんなものかとみんな思っている。それもこれもネピアに侵攻されているからなのよ。ネピアのために文明人と都市が生まれ、工業化が起こり、高い技術資源を蓄えた上で情報化が起こっているの。都市にあらゆる資源とシステムが集中し、人が豊かになったつもりでいるけれど、それはネピアの戦略の線上にいるだけ。だから人々の生活はその資源量とはうらはらに虚無感と疲弊を強める。ネピアな人間は田舎を思考するようになり、郊外に住居を移して暮らしだす」
彼女の喋りがだんだん止まらなくなる。
「ネピアは同時に出生数をコントロールしているの。都市化のリズムにあわせて、世代ごとの人口数を極端に変えていく。人口ピラミッドを壊して少子高齢化を作りだす。都市部に人口を一極集中させて、同時に少子高齢化を起こせば、そこに暮らす人々の疲弊感を一気に強めることができる。本来、人口はただ減るだけなら大してつらくないの。世代間のパワーバランスが崩れることがつらいのよ。特に上世代の価値観を下が押しつけられる。これが最もインパクトが大きい。人は疲れつづける。そしてネピアに頭を侵略された人は田舎を志向し、田舎へ移動するけれど、彼らはそもそも人間の集団に疲れきっていて孤独を求めるから、郊外人口は増えないの。単身、もしくは核家族の小さく弱い群れが郊外にポツポツと現れ、周辺の土地は彼らのその技術によって更地になり、必要なだけの暮らしを終えた人々は線香花火のように消えていく」
「ねえ大丈夫?」と話しかけた僕の声は、彼女の耳に届いていない。
「だから郊外コニュニティは大きくならないの。ネピアにとって人は鍬や鋤なのよ。人間は生きるために森を壊し、動植物のない更地を作りだすでしょう。だから彼らに土地を作らせて、あとに更地だけが残ってくれればネピアは田舎の土地に自分たちの領土を悠々と広げられる。だからネピアは人を侵略する。邪魔になる動植物は人間に殺してもらう。アスファルトだって植物の長大な時間感覚からすれば、ちょっと割れにくい卵の殻みたいなものだし……」
「ねえ、ちょっと待ってくれ。どうしたんだよ。落ち着いて」
「私は落ち着いてるわ」
「なんか変だよ。いったい何の話をしているんだい? だいたいネピアなんてアフリカの植物なんだろう? そんな植物がどうやってここまでくるんだよ。まさか風にのってくるわけでもなし」
「ネピアはもう日本に生えているんだよ?」
彼女は笑わなかった。
「人はね。ネピアの草原を見ると心が落ち着き、穏やかな幸せに包まれるようになっている。風が吹いて緑のたくましい葉がざわざわと揺れる。ネピアの草原にはネピアしかない。途方もなく広く、高く、静かで、遠くでヒバリやヨシキリなんかが鳴いている。とても穏やかなのよ。でもね、それは彼らの存在に触れると人間が幸福感を感じるようにすでに脳が変化しているからなの。曇りの日にあたたかなコーヒーを淹れて、ドーナツを頬張ったときくらいの幸福感を味合わえるようにネピアの花粉が脳をぐにょぐにょといじくりまわしてるからなのよ」
「なあ、日本に生はえてるって本当なのか?」
「ネピアは牧畜用の食草として、とても有能なの。枯れた土地でも勢いよく伸びるし、沖縄や奄美大島、その周辺の離島では1930年代後半に農業用植物として輸入され、今や侵略外来植物としてあちこちに蔓延ってるわ」
「なんでそんなこと知ってるんだよ」と僕が聞いても彼女はいっさい答えない。
「都市ができ虚無が生まれ、人間は分散し、更地が残り、また都市ができ……そういうことの繰り返しのなかで人々は少しずつ疲弊を積み重ね、縮小しながら生きていく。人類の進化や文明の隆盛を志向しながらも人は都市と過疎とを行き来しながら歳をとり死んでいくしかないの。その隙間でネピアは人の脳を侵して領土を拡大していく。ネピアの侵略からたまたま逃れた人々は、そういった世の中の流れの意図がうまく組めないまま、システムの鋭利な刃を喉元に押し当てられ、最低限の暮らしの中でなにがなんだかわからないまま生きて死ぬ。どちらにせよ人はネピアを残して滅びていく。そこには強大な草原だけが残る。でもね。人の発展のそもそもの手柄はネピアにあるのよ。ネピアに侵攻されていない人間は元来どうすることもできない存在なの。彼らこそが純粋な人類なのだとしたら、人はとても弱くて愚かで、怠惰で凶暴で利己的で、ネピアの作った社会のてのひらの上で、ネピアの作ったシステムに守られながら、ただ強がって平気なフリをして生きていなければ、本当にどうしようもない生き物なのよ。だから純粋な人は、ネピアな人に憧れるの。ネピアな人と交われば自分もネピア側の人間になってしまう。それはネピアのために永遠の虚無を繰り返すことを意味している。それでもあの知的で温厚で、ものごとの全てがわかっているよう目をしたネピア人を欲してやまない。ネピア人は自分がネピアに侵されているなんて知らない。だから、ただただ相手を好意の的として見る。もはや時間の問題ね。あちこちでそれが起こっている」
「……なんだか、見てきたような語りだね」
「そうよ、草原は来るの」
そして彼女は僕の目を見ながら「だからあなたのこと、好きよ」と言う。僕は意味がわからず、ただ泡の抜けてきたビールをすする。それしかできない。