バスに乗って海へいく|2,831文字

バスに乗って海へいく遙夏しま2021・01

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 夕飯の支度がもうすぐ終わる。

 キッチンの向こうではひとり息子の遥希はるきが車で遊んでいて、テレビニュースの音といっしょに「はっしゃします」、「ぶるるーん」などと、ひとりごとを言っている。さっき、子供番組を観たいとゴネた彼をちょっと叱ったのだ。まだこちらの様子をチラチラと探っている。

 遥希はもうすぐ三歳になる。男の子。保育園には行っていない。私と夫と三人で暮らしている。少し手狭な2DK。昨今、流行りのリノベ済み県営住宅。

 今の物件を探しあてた夫は、当時、鼻の穴を広げて「こんなに環境が良くて、こんなに安い家はない」と私に自慢した。興奮気味にネクタイを少しゆるめる夫の顔を見ながら「他人のものなのに自慢するなんて変な人だなぁ」と私は思った。

 もちろん何も言わなかった。案内の営業さんも何も言わなかったし、少し狭いけれど真新しい白い壁と窓辺に面したキッチン――窓の向こうには新緑がきらめいていた――は、たしかに申し分なかったのだ。

 夫の職場までは一時間かかるけれど、駅まで徒歩五分。

 家賃は六万四〇〇〇円。

 公園目の前、八階建ての二階。

 結婚して七年目の八月。

 窓を閉めても聞こえるアブラセミの声。

「ねえ遥希、お母さん、料理終わったら絵本読んであげようか?」

 息子がくるりとこちらを向き、「うん!」というがはやいが本棚に駆け出す。「走らないで!」と言い切る間もなく本棚へ到着すると、真剣な顔つきで絵本を選び出す。ノンタン、アンパンマン、はらぺこあおむし、最近の息子のお気に入りだ。

 リビングのソファに座ると、遥希が膝の上にのってくる。重い。足が痛い。「ちょっと、お母さんそれだと重い。読めない」というと。遥希はとても残念そうな顔をする。ついこないだまでは膝の上でいくらでも絵本を読んであげられたのに、もう重いのだ。

 あっというまだ。

 あっというま。

 しばらく絵本を読んであげる。絵本を読みながらこのあとの流れを考える。ふたりでごはんを食べて、お風呂にいれて、歯を磨かせて、寝かしつけて。洗濯物は寝かしつけのあとでまわそう。

 早ければ二十二時前に夫が帰ってくる。彼がきっと夕飯といっしょに洗い物もしてくれる。起きていられるだろうか。最近、寝かしつけといっしょに夜中まで寝てしまう。でも起きなくては。息子もきっとパパを見たいだろう。けど明日の朝かな。遥希は夜、よく寝てくれるから。

 いつのまにか絵本を読むのを忘れていたらしい「ろせんばす!」と息子がいって、突然、現実に引き戻される。

「なに? 路線バス?」

「ろせんバスにのるの」

「乗るの? バスに乗ってどうする?」

「うみにいく」

「海へいくの?」

「うん」

「バスに乗って海へいく」

「うん」

 いつか読んでやった絵本の内容だった。たしかお父さんとバスに乗って海へいく絵本。彼は乗り物が好きだ。働く車が大好きで、そのなかでもバスがとびきり。絵本でもテレビでもネットでも、バスが出てくると「バスぅ!」と叫ぶ。

 私は何度も繰り返された言葉を彼に投げる。

「バスが好きなんだね」

「うん、バスがすきなの」

 遥希が誇らしそうに返す。

「海も好きなの?」

「うみは……わかんない」

「そっか。海にいったことないから?」

「うん」

「いつかの週末、行こうか」

「なあに?」

「本当に行こうよ、海。いつかね。お弁当つくってさ。ママと、パパも連れてく?」

「えぇー、パパぁー?」

「ふふ、そんな嫌がらないでよ。怖くないよ。それにパパが怒るときは、遥希のために怒ってるんだよ」

「うーん……じゃあパパもいく。ママとはるきとパパと、さんにんでいく」

「よし、そうしよう。お弁当は何がいいかな?」

「おべんとうがいい!」

「あはは、ちがうよ。お弁当の中身のこと。おにぎり? たまごやき? ソーセージ?」

「ぜんぶいい!」

「よしよし、全部入れよっか」

 すごく嬉しそうだ。思わず私も海を思い浮かべてしまう。潮風と大きな入道雲と、打ち返す波と。砂浜と海の家と、磯のカニたち。ここから一番近い海はどこになるのだろうか。七年も住んでいてわからないなんて。

「いついく?」

「ん?」

 遥希がまじめな顔で私の顔を見ている。

「いついくの?」

「ふふ、そうねぇ。いつがいいかねぇ」

「らいしゅうがいい!」

「えぇ、来週はまだよー。もっと先」

「にちようび!」

「週末ね。うん、でも今週とか来週じゃなくて、もっと先ね。先の日曜日」

「さきのにちようびっていつ?」

「うーん、もっと、もっと先」

「なんかいおねんねする?」

「そうだねぇ、いっぱい……。いっぱいおねんねして、遥希がもう少し、お兄さんになってからかなぁ」

「えぇーそれっていつー?」

 遥希は口を尖らせて私を見る。私はその顔がかわいらしくて思わず頬がゆるんでしまう。「なんでわらうの?」と訝しがる息子に「そうだよね、お母さん、変だね」と返す。おもむろにほっぺたを触る。二歳児の頬はこんなに柔らかい。

 自分の頬も昔はこうだったのだろうか。とてもじゃないがそう思えない。自分の頬を軽くつねる。自分の年齢を考えてしまう。同時に三十三年という長いとも短いともいえない、私の歩いた半端な道のりが思い返される。誰に自慢するほどでもない。しかしとても大事な年月だ。子供が生まれて、初めてそう思えるようになった。

「どうしたの?」

「ん? 遥希のほっぺた、柔らかくていいなぁって」

「いいなぁでしょうー」

 鼻の穴を広げて誇らしそうな顔。夫にそっくりだ。「なに、いいなぁでしょうって」といい私は少し笑う。彼も笑う。

 海へ行くことさえ、こんなに億劫になってしまった自分を呪う。

 二年前、私たちの生活は『不要不急の外出を控えてください』から、『外出を控えてください』に変わり、今、世間は小さな子供や体の弱い高齢者の外出をし始めている。また外出する人間も「外」から「中」に入る前に二週間、特定衛生施設での除菌期間を経なければいけなくなってきた。都市部は特に除菌ルールを徹底しており締め付けが強い。

 現在、通勤一時間ちょっとの夫がわが家に帰ってこられるのは月に一回だ。

 新種の病原菌は私たちとの戦いに勝利し、その褒賞として「外の世界」を手に入れかけているようだ。良かったね。単純に私は思う。他人事みたいに。

 そうして同時に彼らに向けて世界が微笑むことを恨めしく思う。

 息子は、遥希は海を知らない。

 バスだって乗ったことはない。

「本当に海にいくまでさ。それまでは、絵本で読もっか」

 そういって立ち上がり、本棚へいく。「うん」と元気な返事が聞こえる。バスで海へいく絵本。どこに置いたか本棚を探す。向こうで目を輝かせている息子。子供特有の幼くしめった息。少し汗ばんでいる背中。

 この子が目を輝かせてバスに乗り、のびやかに海を泳ぐ季節が、本当にいつかくるのだろうか。

 キッチンの向こうに広がる八月の空は高い。私は去年に育てて、そのまま出しっぱなしにしているベランダの朝顔の鉢植えをふと思い出す。しかし息子に絵本をせがまれたのをいいことに、ベランダのことは、そのまま忘れてしまうことにする。

(了)