雨と紫の雲|2,731文字

雨と紫の雲遙夏しま2020・03

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 小雨が降る。分厚い曇がかかっている。

 曇に突き上げる白い煙突。煙突から紫色の煙が昇っている。

「あの煙はね」

 黒い服を着たおばさん。

「死んだ人を焼いて出ている煙なのよ」

 おばさんは煙突を見る私に向かって、そう言う。

 私は知らないおばさんの顔を見上げるため、差していた赤い傘を少しずらす。

 そのとき私は四歳で「へぇなるほど。私もいつかあそこで焼かれて煙になるんだな」と考えた。

 私は死ぬとあそこへ行き着く。

 着地点。

 おばさんの顔はまったく思い出せない。しかし白髪と皺と黒い服と、嬉々として喋る枯れた声はきちんと覚えている。

 記憶とは不思議なものだ。

 私はちょうどその頃、「死」というものを知ったばかりで恐怖していた。死を恐れた原因は死んだ私がどうなるか全くもって分からないことだった。

 私は死んでから人がどうなるのか父や母に聞いて回り、それが両親にも分からないことだと知ると、途方に暮れて毎晩、泣いた。眠ることが怖くなり咽び泣いて怯え、母にしがみつきながらなんとか眠った。夜中に起きてしまうとどうしようもなくなり、声も出せずに涙を流し続けた。死が存在しそれが未知であることは私にとって心臓が薄暗く凍っていくような恐ろしい現実だった。幼少期の私にとってはほとんど取り返しのつかない種類の恐怖だった。

 そんな四歳の私にとって「死ぬと焼かれて煙になる」という事実がとりあえず自分の前にぽんと置かれたことは、心安らぐ、とてもありがたい出来事だった。おばさんのひとことを受け、煙になることを想像するだけで不思議なほど気持ちが落ち着いたのを覚えている。

 もちろん黒い服を着たおばさんが、なぜわざわざ見知らぬ四歳の子供にそのようなことを言ったのか、今となってはあまり良い憶測は思い浮かばない。

 その真っ白く高い煙突は私の地元にある最終処分場、つまりゴミ処理場の煙突であった。葬儀に使ういわゆる焼場の煙突ではなく単にゴミを焼却した煙が出ているだけだった。そもそも現代の焼場は高温で遺体を焼くため大きな煙突は必要ない。

 おそらくそのおばさんは精神的に何かを抱えこみ過ぎていたのだろうと思う。黒い服を着ていたのは葬儀の帰りだったのか。大切な人を亡くして気が動転していたのかもしれない。家の近所に水溜りを見に来ただけの、私のような子供に不気味な嘘をついてしまうくらいだから、きっと何かしら事情はあったのだと思う。今となってはわからない。

 しかし当時の私はおばさんの真意など勘案することもなく、ただ傘の向こうにある白くて長い煙突から神妙な煙が湧き上がり空に消えていくのを安堵しながら黙って見ていた。

 記憶の中、奇妙に神々しい煙突がある。

 煙突から溢れる死は、雨と紫の煙だ。

 私の中に曖昧な解釈がこびりついた。

 今。

 死はあの頃より私の身の周りにまとわりつくようになった。

 ふとした折に、死は私の想像の一歩先に爪先を降ろす。例えば駅のホームで電車を待っているときだとか、流れの速い川を見つめているときだとか、ビルの屋上から街を見下ろすときだとか。ここから飛び込んだら私は死ぬのだろうなと予感がよぎると、私は自分の肉体が分散されて紛失される想像をせずにはいられない。そうして、少し怖いと思うと同時に「そうなった方が楽なのになぁ」と、ひとりしみじみ思うことがある。

 そういう予感が頭を取り巻くことがあるのは押し並べてみんな、そういうものなのだと思っていた。しかし周囲の友人に「誰しもふと死にたくなるよね」と冗談で打ち明けてみたところ、笑って共感されるどころか「大丈夫か?」「病院に行った方が良いのでは?」と真面目な顔で問い詰められてしまった。

 そういうものではないのだ。そう私は言いたかった。だってある種の人にとって生きることは死にたいことなのだ。そういう人にとって「死」とはとても身近なものであって、自分の体が薄皮一枚の向こう側にそれを抱えている事実こそが生きている実感なのだと私は思う。

 しかし「そういう思考になっている状態こそが異常だ」と仲の良い友人は本気で心配してくれた。そこまで本気で言われると、もしかしたら本当にそうなのかもしれないと思えてきた。確かに私のこういう思考は健全ではないのかもしれない。

 私は煙突を思い返す。

 家の中で食事を摂らなくなって三日目の午後、私はベッドに横たわりながらベランダの鉢に植えた小さなエケベリア(それは乾燥に強く良く育つ多肉植物として駅前の花屋さんで売られていた)を眺めている。なんとなく食べていない。よくあるのだ。もういいかと思うと食欲がなくなる。そのうち体が怠くなって、色々なものが面倒くさくなっていく。

 寝転がって考える。どうすることもないのだと。例えばこのまま私は死ぬ。しばらくすると私は崩れ落ちる。液体が流れ出し、物質は分解されて、変換されて、あとは如何様にもなり、そして世界のどこかに収まるのだ。(あるいは今見ている植物のあのぷっくりとした葉になるのかもしれない。)

 そうやって考えながら何度も死のうとしてきた。そのたびに私はあの煙突を思い出した。パッとしない、重苦しい曇天の、小雨の漂う灰色がかったあの記憶を。その空に浮かぶ紫色の煙を。おばさんの言った今となっては不吉さばかり感じる言葉を。

 あぁ私は煙になるのだ。

 紫色の煙に。

 そして空の雲に混ざる。

 灰色の小雨になるのだ。

 そうやって安堵しては、なぜかそこで心臓に小刻みな震えが起こり、その震えが私の怠惰な思考を叩き、もう一度、生きようと思い直させるのだ。

 私は血の巡らないあばらの見えた身体をなんとか起こして、這いずるようにしてキッチンへ向かうと目眩と戦いながら冷蔵庫の扉を開ける。そこには足先や指先を凍えさせ決定的に損わせる冷気とともに、数枚だけ残った薄っぺらな食パンがある。カビが生えていないことを確認して私は温めることもせず食パンにかぶりつく。

 この身体をもう少し生かすのだ。遅かれ早かれ私は煙突から煙となる。死はいつだって私と共にある。同時に私はそれに怯えている。私はどこへも行けない。ただ死ぬまで死にたいと思い、死ぬことも出来ず、ぼやけた思考を頼りに死ぬまでを生きる。食パンのカビすら食うことも出来ない。

 何が死ねよう。それが私なのだ。

 私は馬鹿で少なからず絶望しており、自らに呪われている。それでいて無情にも時間は私の味方をしている。

 仕方なくふたたび私は煙突の煙を思い出す。煙の中にはきっと私のあるべき姿がある。そうずっと夢見てきた。希望の歌はついぞ私に流れないかもしれない。しかしそれでもいつか雨になることは出来る。

 私は今、生きる以外に、死ぬ術を持たない。

 ベランダのエケベリアを食べてしまおうかと考えて、それも良いなと私はひとり唇の先で笑う。

(了)